小説 桜ノ宮 ㉗

広季は部屋のインターホンが鳴ったと同時にドアを開けた。
姿が見えないよう、ドアに身を隠す。
「さあ、入って。振り向いては駄目ですよ。まっすぐ歩いて」
「はい」
美里の肩を抱いて紗雪が入ってくる。
「さ、ベッドに腰掛けて」
二人は広季に背を向けてセミダブルベッドにゆっくりと座った。
紗雪は美里の背中を撫で、耳に髪の毛までかけてやっていた。
「大丈夫、大丈夫」
耳元で囁くと、美里は肩の力を抜き、深く息を吐いた。
「じゃ、このまま、ここにいてね。私は1階で待ってるから」
美里が頷くのを確認すると、紗雪は立ち上がった。
ドアに隠れている広季を見つめて会釈をすると、部屋を出ていった。
広季はゆっくりとドアを閉めた。
抜き足差し足で美里に近づく。
「ずっと、黙っとってごめん。俺も信者やねん」
「えっ」
美里は振り返ると、広季の顔を見て呆然とした。
うつろな眼差しを受けて、まともではないと広季は感じ取った。
前に会った時のような威勢の良さは無くなっている。
「禊」や「償い」で心身共にすり減らしたようだった。
「何で、あんたがここにおるん?」
声はゆらゆらと安定していない。
「だから、俺も信者なんや。ハニワ誠実教の」
緊張が早口と化して表に出てしまう。
「いつから?」
「就職してから。美里には黙っていたけど。結構、位も高くなってて。今回、相談に乗ってもらいたい人がいるって言われてどんな人やろうって調べたら美里やったからびっくりした」
「びっくりしているのは、私の方やわ」
おでこに手を当てて、美里はうつむいた。
弱々しい姿に保護欲が掻き立てられる。
「横になり」
広季は美里に近づき、ベッドに横たわらせた。
久々に嗅ぐ妻の香りに胸が高鳴ってしまう。
「真美さんが、女性と俺がホテルへ入っていくのを見たって言うてるらしいけど、それは信者たちの相談に乗るためやってん」
「そうなん」
美里は目を閉じて聞いている。
広季は美里の隣に寝そべった。
「真美さんは、俺が同じ信者やと気づいてなくてな。それで君につらい償いをさせてしもた。よう調べもせんと。もう、あんな半端もんに会ったらあかん」
広季は美里の手を握り、こめかみに唇を寄せた。
「俺のところに帰ろう。真美さんの代わりに俺が友達になる」
美里は大きく息を吐き、微笑んだ。
広季が抱き寄せると、その胸のなかに迷わず入り込む。
すべては嘘だった。
市川紗雪が決めた嘘だった。

「奥様はご自分のことをご自分で決められないようです」
ティールームで紗雪は鬱陶しそうに話した。
「もともと、そういう女です。自分で決めたのは俺と結婚することぐらいだって言ってました。子供を持つことも、なかなかできないから心配だって、妻の両親が勝手に不妊治療の予約を病院にしてから始まりましたし」
「そうだったんですか」
「『学習塾を決める時みたい』って妻は笑っていましたけど。思えば、その頃から様子がおかしかったですね。『自分が何かの入れ物みたいに感じる』とか何とか言っていました」
広季は振り返りながらなぜあの時何も手を打たなかったのかと激しく後悔した。
「へえ。ところで先程メールでも簡単に説明しましたけど、私の考えた小芝居、打ってくれますか」
「はい。もう、何にでもなりますよ。妻と子供を取り戻すためやったら。でも、大丈夫ですかね。俺も信者やなんて。それもベテランの」
戸惑う広季を見て紗雪は片手を振って笑った。
「大丈夫ですよ。奥様、普通の感性じゃ信じられないようなことを信じているんですから。今、ハニワ誠実教に関することなら何だって信じますよ。何やわかれへんけど初めて会った私のこと『先生』とか呼ぶし。だから、がんばりましょう。ね。そろそろ、お部屋へ行ってください」
「了解。あの、市川さん、本当にありがとうごさいます」
「それは、すべてが終わってからですよ」
紗雪の苦笑いを受けて、広季は席を離れたのだった。

「安心する。めっちゃ安心する」
美里の吐息が衣服を通り抜けて広季の乾いた胸を湿らせた。
広季は美里の背中をゆっくりとさすり心から慈しんだ。

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