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小説 桜ノ宮⑫

インターホンが紗雪の部屋にお気楽な音色を奏でたのは、夜11時を回ったころだった。
紗雪はちょうど風呂からあがったところで、タンクトップとパジャマのズボン姿で濡れた髪をタオルで拭き取っていた。
胸の奥にいきなり落ちてきた不安の塊を抱き、警戒しながら画面を見ると、修の顔があった。
僅かに肩が揺れ、貧乏ゆすりをしている。
久しぶりに会ったあとでこのような行動をとられると非常に気持ちが悪い。しかも、こちらは風呂上がりだ。ただ、修は一人の男であると同時に刑事でもある。下手なことはしないはずだ。紗雪は、戸惑いつつ通話ボタンを押した。
「はい」
「あ、遅くにごめん」
マンションのエントランスに修の低い声が響いていた。怯えているような緊張しているようなこわばった表情があった。仕事を離れた時に現れる懐かしい小心者が顔を見せていた。
「どないしたん」
「さっき、一緒にホテルにおった人から伝言のメモ受け取ってて、写真撮ってスマホで送ろうかと思ったんやけど、メールアドレスも電話番号も全部変わってたから送られへんかって」
「ほう」
修と別れた後に、スマホの機種変更をする機会があり、その時に連絡先をすべて変えたことを紗雪は思い出した。
「どうしよう。メモ、ポストに入れとこか」
それなら、インターホンなど押さず最初からそうすればいいのに。画面の中で慌てふためく修の様子はいじらしく映った。
「うん。頼むわ」
「わかった、ほな、そうしとくわ」
「ありがとう。ほなね」
紗雪はすぐに通話ボタンを押した。
「あ」
静かな部屋に修の声がわずかに残った。
翌日、買い物から帰ってきたついでにポストを開けると、シワっぽいメモ用紙が1枚転がっていた。
取り出してよく見ると、大きく書かれた広季の連絡先の下に、小さく何かが書かれていた。
「何か困ったことがあったら連絡ください。一応、警察なんで。オサム」
その昔、紗雪が適当に決めてあげたメールアドレスと電話番号が丸っこい字で書かれていた。
紗雪はカバンのなかにメモを押し込み、自宅へと向かった。
その日の夕方、紗雪は広季に電話をかけた。
「あ、もしもし、市川ですけど」
「あーあー。やっとかけてくれた。待ってたんですよ」
心底ほっとしているようだった。
「何か御用でしょうか」
「あのー市川さん、暇ですよね、今」
紗雪はイラっとした。
「だから何なんですか」
「あのね、探偵にならない?」
「はい?」
「うちの奥さんが何であのホテルに男と行ったか調べてほしいんですよ」
「何で私が」
「暇そうなのもあるし、あのホテルマンの彼と知り合いなんでしょう?」
「まあ、そうですけど。でも、そんな探ったりなんてできないですよ」
「時給は派遣の2倍は払うよ」
「え」
「勤務時間は申告制にするから多少ごまかしても問題なし。どう」
「ううむ」
紗雪の小さなプライドが崩れていく。
「緊急事態宣言が出たら、仕事なんてなかなかないですよ。いい条件だと思いませんか~」
痛いところをつきやがって。紗雪は鼻にしわを寄せた。
「ほな、緊急事態宣言が出たらお受けします」
翌日、大阪に緊急事態宣言が発令された。

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