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今はただ「"原作通り"至上主義」が正義になってしまいませんように、としか言うことができない

脚本家を名乗らせてもらっている身としては、非常に痛ましいニュースを受け取った日だった。
原作を生み出した人、それをメディア化しようと中心となって動く局のプロデューサー、本来映像や映画のために作られていない原作を別メディアで製作可能な台本という形にする脚本家。どれも大変な仕事。関わっている誰もが、ダメな作品を作ろうとしていた訳はない。
現状、憶測でだれか、特定のポジションにいる人を責めることはできないし、責めるべきでもない。
「こうげきしたかったわけじゃなくて」という原作者氏の投稿は、胸が痛くなるくらい正直な感情であったろうと感じた。
このまま説明責任を果たさないことは原作者として申し訳ないと思って声を上げたはず。自分が信じた正しさのためにやったことであろう。
でも、現在のSNS社会では、正しさこそが最大の着火剤になってしまう。
義憤にかられて、あえて厳しい言葉を使えば、なんの関係もない、原作も読んでなければドラマも見ていない人たち、どのように作品が作られていく工程も知らぬ人たちが「よくない!」、「どうしてこうなった!」と声を上げ、「私はあなたの味方をします!」という表明が、対立構造を生んでしまう。
もちろん、いまだに問題を多く抱える業界ではある。なのでこれまで泣き寝入りするしかなかった人たちがSNSの拡散力、影響力によって救われたこともあるはず。
だが、その力が大きくなりすぎたのかもしれない。
ホッブズは『リヴァイアサン』の中で、「国家」という権力を人々には制御不能な巨大なリヴァイアサン(怪物)として例えたが、今は義憤にかられ、正しさを信じる民衆の集合体こそが怪物なのかもしれない。
しかるべきタイミングで当事者同士の対話さえあれば、結果は違っていたのではないだろうか。と思わざるを得ないが、今は詳しい経緯が明かされるのを待つべきである。

脚本家をやらせてもらっている身として、今僕が個人的に言えることは、
「作品をメディア化する際は、原作を忠実に再現することこそが至高である」という言説が安易に広まり、それが正義のポジションを取ってしまわないとといいなということだけである。
小説や漫画などの原作は、あくまでその最初の表現形態に最適化されている。それをアニメ化、実写化するとなれば、映像や音楽やキャストなど、原作にはなかった要素を追加する必要があり、別表現フォーマットにそのまま移植するというのは難しいし、それが正解とも限らない。
原作の表現形態だからこそ成立していた要素も多々あるはずであり、アニメにはアニメ、実写映画には実写映画の表現形態そのものがもっている良さがある。
メディア化作品に関わる全ての人が、原作の良さの核の部分だけをうまく抽出し、メディアミックス先の表現形態にもっともマッチする形にするにはどうしたらいいか、心を砕いているのである。
もちろん、それがうまくいっていない作品も多々あることは承知している。 が、「"原作通り"至上主義」の声が強くなりすぎないことを祈る。
どういうやり方がよくて、どういうやり方がよくないなんてくくり方はできない。 作品ごとに、どれだけ疑い、どれだけ必要な対話を重ねられたか。それだけだと思う。

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