『パラサイト 半地下の家族 』『はちどり』、そして 『82年生まれ、キム・ジヨン』へ
翻訳ものとしては異例のヒットとなった『82 年生まれ、キム・ジヨン』(2019年、以下『キム・ジヨン』)の映画版が2020 年の秋、日本でも公開されました。本国では原作がフェミニズム論争を呼び起こした題材なだけに、『パラサイト 半地下の家族』(2019年、以下『パラサイト』)、『はちどり』(2018 年)同様、社会や女性の生き方について考えさせられる点の多い作品です。これらの作品についての比較や女性監督の活躍について話し合います。また、最近のヒット作の傾向や変わりつつあるテーマ設定などについても触れていきます。
(2020年9月26日駒草出版会議室、同年11月8日 Zoom にて収録)
次の世代が語り始めた〝わたしたち〟の物語
西森 一章でも触れましたが、ハンさんは『パラサイト』と『はちどり』が同じ時代に世に公開されたことについて、どう思われます?
ハン 両作品とも、それだけがテーマではないけれど、韓国の家族を描いた作品ですよね。時代設定は『はちどり』が1994年、『パラサイト』は現代で、異なってはいますが。『パラサイト』は、社会での貧富の格差という「大きな物語」に、家族内の差異といった「小さな物語」が覆い隠されるようになっているけど、『はちどり』はその逆だと『ユリイカ』2020年5月号のエッセイに書きました(本書P.172に収録)。『はちどり』は、ウニという個人の「小さな物語」を通して、大きく変化していた当時の韓国社会、「大きな物語」を見通すという構造になっています。
西森 それを聞いて思ったのですが、『はちどり』に1994年のこの橋( 聖水<ソンス>大橋)の崩落のことが出てくるじゃないですか。あの崩落の話を他の映画で見たことはありますか?
ハン 同じような意味をもつ出来事として翌1995年には三豊(サンプン)デパートの崩壊という事故もありましたが、わたしは見ていないかな……。
西森 そのデパートの事故を扱った映画『ノートに眠った願いごと』(2006年)は公開当時観ていたんですが、デパート崩壊という大きな出来事が起きて、そこに取り残された人たちの、短い時間での交流と残された恋人のことを書いた話で。だから、そのデパートの事故が社会的なものとつながってるっていうイメージは、当時のわたしにはわからなくて。だけど、『はちどり』を観たら、あの橋の事故の話というのは、社会が成長を急いだでいるということに関係があるのかなとイメージできました。
ハン それは『はちどり』という映画の力なのか、西森さんがそういう見方をするようになったということなのか、どっちだと思いますか?
西森 そうですね。どっちもありますね。そういう映画が少なかったのもあるし、少ないのでそういう視点ももちにくかったのかなと。それ以上に、まだ韓国のことで知っていることも少なかったですね。
ハン 前の部分でも話しましたが、『はちどり』のキム・ボラ監督がそういうことを意識していたのは確かだと思います。わたしはその2006年の映画を観ていないので比較はできませんが、『はちどり』を起点に話すとしたら、『キム・ジヨン』もそうですが、今、80年代に生まれて90年代に青春時代を送った40代の人たちが語り始めているというのはありますよね。その世代の人たちが作り手になってきている。中でも女性たち。それは、2016年に面識のない男性から女性が殺害された江南の事件でフェミニズムが盛り上がってきたということもあって、自分の過去をフェミニズムの視点から改めてふり返って物語にする。『はちどり』の主人公ウニが1994年に14歳だったっていうのは実際にキム・ボラ監督の年齢で、それは個人的なことではあるんだけど、女性の、しかも少女の視点で当時をふり返ることは、そういう物語がなかっただけにものすごく社会批評的な行為で。そういう意味で、あの映画は個人的なことだけに閉じていかない構図になっていると思います。
個人的な経験のふり返りであっても、あのときのあれは何だったんだろう、何が起こっていたんだろうというという「問い」の射程が個人を超え
て社会的なものになっている。そういう目線がはっきりと感じられますよね。このような、わたしたちが生きてきたのはどんな時代だったんだろう、どんな社会だったんだろう、さらにはそこで見過ごされてきたもの、こぼれ落ちてしまったものは何だろうという目線には、「セウォル号」事件の影響や、その後、朴槿恵(パク・クネ)大統領に対して退陣を求めたろうそく革命の流れも感じます。
ポン・ジュノより上の人たち386世代、今では586世代と言われる主に男性たちが担っていた『シュリ』(1999年)や『JSA』(2000年)以降の、社会派エンタメのブロックバスター大作っていうひとつの大きな流れがあって。あれは個人から出たものというよりももっと大きな状況、たとえば南北分断とか軍事政権と闘う民主化運動とか過去の植民地支配への抵抗だとか、そういったことを扱っています。それらはもちろん、当時の彼らにとっては切実な問題だったし、今もそうだとは思うのですが、もっと大上段に構えて国や社会の問題としてアプローチしていたと思います。そのような固有な文脈があったからこそ、むしろグローバルに通用する力をもったとも思うんですけど。でもそれが行き着いた先としての『パラサイト』を見ると、むしろ透明化、あるいは無色化されてしまったというか、韓国的な文脈が後景化しているように感じて、それはそれで興味深いなと思っています。
一方で『はちどり』は、個人というところから始まって、でもそこで自分の思い出というところに留まらない。自分の経験をふり返る上でフェミニズムという「新たな」視点、新たな座標軸があって……。これはもしかしたら韓国の文学とかにも共通することなのかもしれません。だから個人の話をしても、それだけに絶対留まらないというか、個人のことを語るとそこに行き着くし、行き着かざるを得ない。それは正しいと思うんです。そこにすごく意識的でしかも上手だったから、この映画がこれほどまでに評価されているんじゃないかと思っています。もちろん、グローバルにも評価されていますよね。
西森 ひとつ聞きたかったのですが、『はちどり』に出てくる聖水大橋の崩落は、その当時14歳だった人にとっては、どう見えていたんでしょう。今わたしたちが問題点だと感じるようなことを、14歳のときにぼんやりとでも感じていたのかな、と。
ハン どうなんでしょうね。たとえば日本では同じ時期にオウムの地下鉄サリン事件があって、その当時の中学生がどういうふうに見たんだろう、というのと同じような感じじゃないかな……。何かしら不穏な感じはしただろうけど、でも中2の子がはっきりと、「これは社会の問題だ」っていう風に見ていたかどうかはわかりません。
ただ、わたしがキム・ボラ監督にインタビューしたときの印象で覚えているのは、すごく怖かった、その当時生きていた韓国人にとって、ものすごくインパクトのある経験だった、みたいなことは言っていたかと。
何か大きな社会的事件があったとして、それが繰り返し語られ歴史化していく中で社会的なコンセンサスができていく。おそらくこの事故は韓国の軍事政権が推し進めた開発独裁による経済成長の構造的な歪みを象徴するというコンセンサスがあり、この作品もそういう前提のもとで作られているということでしょう。当時から、「橋の工事が手抜きではないか」ということは言われていたとは思うけど、歴史になるには時間がかかるから。
西森 その辺のことが知りたかったんです。わたしの個人的な話ですが、2010年に、仕事で韓国にひとりで行ったことがあるのですが、現地のコーディネーターさんとバスで移動をしていた際、話をしていたら、「日本は何でもやっぱりていねいですよね」とその方が言っていて。「韓国のものは、裏側をひっくり返したら手抜きがわかるけれど、日本は裏返してもちゃんとしている」と。そのときは「そういう風に思ってくれているのか」と思ったんです。
ハン 実際、韓国は日本に比べたら確実に後発国で、かつては植民地にもされているわけで、憧れとコンプレックスが入り混じったような感情はずっとあったと思います。つねに日本を意識し、追いつけ追い越せ的な。最近、もはや先進国なんだというプライドで変に高揚しているように見えることがあるのもその裏返しでもあって。でも実際、今や日本の方が手抜きなのでは?というくらいになりつつあるのも現実ですよね。
西森 本当にその通りだと思います。最近は、日本国内においても、たぶん国外においても、むしろ日本の方が手抜きでしたよね……という風に見え方が変わったんだなと。
ハン ここ1、2年で急速にそういうイメージができてきたように思いますが、少し前までは、基本的な認識として「日本のものはいいものだ」というのはあったと思います。
植民地時代に文化的に同化されたという経緯から1998年までは日本の大衆文化が禁止されていた中、みんな隠れて日本の音楽を聴いてたりしたわけですし。たとえばうちの家族だって、過去の歴史的な経緯によって日本に定着するようになったわけだけど、80年代くらいまでは韓国の田舎の親戚などが、「豊かな日本で暮らしてていいよね」というようなことを言ってくる感じはあったわけですよ。こちらからすると違う意味でいろいろ大変なんだけど………。
まあバスでの話は、西森さんが日本人だからっていういい意味でのお世辞の部分もあったりすると思いますが。
西森 そのニュアンスも感じてはいましたが、それでもあの頃、日本のものは、裏返してもちゃんとしてるとは思われてたんだなということも感じました。
ハン あまり適当なことは言えないけど、『はちどり』の舞台となった1994年は、その辺の意識の変わり目なのかもしれません。一応軍事独裁政権は終わって文民政府になって、それまでの古い韓国と、それからの新しい韓国のちょうど変わり目で。だからこそ、90年代をふり返る作品がたくさん出てきているっていうのは、結構大事なことかもしれないと思っています。もうちょっと上の世代とはちょっと違う、自省的、あるいは内省的な感じが全体的に漂っているというか。
西森 確かに、今までの韓国映画のイメージとはちがう流れという感じはありますね。
(構成:西森路代)
※『韓国映画・ドラマ――わたしたちのおしゃべりの記録2014~2020』④「韓国映画のこれから~女性監督の躍進とヒット映画に見る時代の気分」より
著者プロフィール
西森路代(にしもり・みちよ)
1972 年、愛媛県生まれのライター。大学卒業後は地元テレビ局に勤め、30 歳で上京。東京では派遣社員や編集プロダクション勤務、ラジオディレクターなどを経てフリーランスに。香港、台湾、韓国、日本のエンターテインメントについて執筆している。数々のドラマ評などを執筆していた実績から、2016 年から4 年間、ギャラクシー賞の委員を務めた。著書に『K-POP がアジアを制覇する』(原書房)、共著に『女子会2.0』(NHK 出版)など。
Twitter:@mijiyooon
ハン・トンヒョン(韓東賢)
1968 年、東京生まれ。日本映画大学准教授(社会学)。専門はネイションとエスニシティ、マイノリティ・マジョリティの関係やアイデンティティ、差別の問題など。主なフィールドは在日コリアンを中心とした日本の多文化状
況。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィ)』(双風舎,2006)、『ジェンダーとセクシュアリティで見る東アジア』(共著,勁草書房,2017)、『平成史【完全版】』(共著,河出書房新社,2019)など。
Twitter:@h_hyonee
『韓国映画・ドラマ――わたしたちのおしゃべりの記録2014~2020』
四六判/並製 284ページ
ISBN 978-4-909646-37-8
定価(税込み) 1,870円(税込)
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