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2021年7月26日 小松庵総本家 銀座 ≡ 森の時間 ≡ 講師 内藤とうがらしプロジェクトリーダー 成田重行さん、江戸ソバリエ協会理事長 ほしひかるさん

内藤とうがらしプロジェクトリーダーの成田重行さんから「内藤唐辛子について」と、江戸ソバリエ協会理事長のほしひかるさんから「蕎麦と薬味について」のお話を伺いました。(写真は、左から成田重行さん、ほしひかるさん、小松庵社長)
 
<なぜ、内藤とうがらしプロジェクトを始めたか>

成田重行さん(以下、成田さん)
今やっているNHKの朝ドラで「おかえりモネ」の百音(モネ)さんが産まれ育ったのは気仙沼市の亀島が舞台ですが、撮影は気仙沼大島です。2011年の東日本大震災のときに、私は5月にこの島で復興支援を始め、今でも続けています。

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復興支援の活動中に、ちょうど今頃の時期に瓦礫の中から蕎麦の花を見つけました。普通の人なら雑草と思ったかもしれない花ですが、私は長年に渡って蕎麦を栽培してきたので、蕎麦の花だと気付きました。調べたら、気仙沼大島は米ができない場所で、明治以降から昭和まで蕎麦を栽培して主食としていたという歴史を知りました。そこで地元の人と相談して蕎麦の島として復興しようと決めました。地元の小学校の学習では子供たちと蕎麦を撒いて、育てて収穫して、石臼で引いて、正月にはその蕎麦を食べています。この活動は現在も続いて10年になります。私はこのような村おこしの活動をしています。企業を退職し20年間全国の地域開発プロデュースを行っています。(下図参照)

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私達の事務所は新宿にありました。新宿区長や地元の人たちから、私が全国各地の復興の活動をしているのに、地元の新宿でやっていないのではという指摘を受けました。

新宿は通勤通学で350万人の人たちが往来するグローバル大都会です。しかしローカルでみると40万人が住んでいると気付きました。その住人たちに照準を合わせ、地域の開発をしようと始めたのが内藤とうがらし復活のきっかけです。

一般的に村おこしというとB級グルメを話題にするやり方があります。焼きそばや、ラーメンなどの食べ物を、どこかから持ってきた借り物で話題にさせます。ブームを起こしても、一過性ですぐに消えてしまいます。もちろん、それを否定するわけではありません。

私のやり方は、地元の唯一のオリジナルを大事にしています。その土地の歴史や文化を掘り起こして、このエリアでは昔は何を食べていたのか、どんな行事があったのかなどを調べて、それを復活します。これまで日本の小さな村や町30カ所もの村おこしをやってきましたが、全て同じやり方です。

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<内藤という地名の由来>

成田さん
内藤とうがらしも同じ考え方で、2008年から2010年までの2年間、新宿の図書館で調べたり、住民の人たちから新宿の昔の話を聞きました。新宿の歴史大半は明治時代から近代が主で私の調査は江戸時代の宿場町の内藤新宿と呼ばれていた時代まで遡りました。

江戸中期の人口も増えてきた頃、甲州街道や青梅街道もにぎわい、その街道上で武蔵野や多摩地区の人との交流が起きましたが、日本橋の次の宿場が高井戸で距離がありすぎるので、間に宿場町を作ることになりました。そこが新しい宿場、新宿と命名されました。

その新宿は、内藤家の土地でした。内藤家は、徳川家康の家臣です。家康は秀吉に言われて、今まで守ってきた三河の方から1591年に江戸に国替えしました。幕府ができる1603年よりも10年前に視察に来ましたが、その時の江戸は草ぼうぼうの荒れた土地です。ちょうど小田原城が落城した直後で、残党も残っていて治安の悪い時期でした。

その治安を守るために、家康は家臣で信頼でき、馬や槍や鉄砲が上手な内藤清成を連れてきました。内藤清成は、家康から100人の鉄砲隊をあてがわれ、四ツ谷から西の地域を守るように言われて、見事にそれを達成しました。そこで、家康は褒美を出しました。その褒美とは何でしょうか。答えは、土地です。

その土地の渡し方がユニークで、内藤清成に馬をあてがい、馬が走った場所を領地として与える、としたのです。内藤清成は、四ツ谷を起点として北へ大久保、西へ今の新宿駅、南へ代々木、千駄ヶ谷、そして四ツ谷に戻りました。

その領地は大体23万坪といわれています。
それが1603年以降に内藤家の領地になりました。内藤家は7万石でそんなに大きな殿様ではありませんでしたが、その土地は明治まで内藤家の所有でした。内藤家の土地で生産されたものには、全て内藤の名前が付きました。宿場町は内藤新宿と呼ばれました。

江戸の人口が増えて、食料もたくさん必要になります。多摩や八王子で作られたものが、青梅街道や甲州街道を通って、内藤新宿の宿場町を経由して四ツ谷から府内神田、日本橋へ運ばれます。新宿では地域の野菜も作っていたので、その野菜も宿場に出ます。宿場町の旅館も200軒くらいあり、賑わっていたと言われています。
野菜は、宿場の問屋から神田、日本橋に持っていきました。その野菜の中には唐辛子も入っていました。その唐辛子が売れに売れた、と伝えられています。

<江戸の蕎麦ブームを支えた唐辛子>

成田さん
その頃の江戸は蕎麦ブームで、蕎麦の薬味として唐辛子が人気でした。唐辛子を栽培すれば売れるので、便乗して多くの人たちが唐辛子を栽培しました。昔の本の中に、秋になると四ツ谷から大久保の方を眺めると真っ赤な絨毯を敷かれ光景だった、と書かれています。それほど、新宿周辺では唐辛子の栽培、一大産地だったようです。

唐辛子が日本に入ったのはポルトガルの宣教師がキリスト教の布教のために日本を訪れたときに持って来たのが最初です。1542年(天文11年)まず宣教師たちは九州の戦国大名(大友宗麟)に届けました。その後、江戸の初期に漢方薬として利用され、その後100年くらい経った頃に、やっと庶民が食べることになりました。最初は、ぶっかけそばの薬味です。そんな話を、内藤とうがらしを整理して2010年に発表しました。新宿区長や地元の人も知らなかった歴史です。

その後で、話だけじゃ面白くない。内藤とうがらしを再現しよう、となりました。

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まずは種探しです。江戸時代の発明家であり本草学者でもあった平賀源内(1728~1780年)氏が日本中の唐辛子をまとめあげた「番椒譜(ばんしょうふ)」という図鑑を出していました。その中で、八房(やつふさ)とうがらしが描かれています。内藤とうがらしは八房とうがらしの一種です。そこで平賀源内さんの描いた絵を手元に置いて、それを参考にしながら同じものを手に入れようとして探し、最も古い八房種のタネを手に入れました。

<内藤とうがらし復活のスタートは7粒のタネ>

成田さん
私が長年蕎麦を作っている畑が八ヶ岳の麓にあります。その畑で、入手したたった7粒の唐辛子のタネを育てて、増やして、3年で一面の唐辛子畑にしました。唐辛子は栽培するのは簡単だけど、交雑性が激しいところが育てる上で難しい点です。他の唐辛子を受粉してしまうと、次の年には下を向いたり、丸くなったりと別の唐辛子になってしまうのです。現在は生産農家さんの畑で交雑して別の唐辛子になってしまうのは困るので、毎年毎年、原種のタネを渡して、一年ごとに作ってもらったものを全量買い取っています。(契約栽培)

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内藤とうがらしは、2013年JA東京中央会が認定した江戸東京野菜です。2018年に「内藤とうがらし」の商標を取りました。(特許庁地域団体商標)


<質疑応答>
○内藤とうがらしの特徴は?

江戸時代に内藤とうがらし入りの七味唐辛子を売っていました。内藤とうがらしと、他の辛い唐辛子をブレンドして七味唐辛子を作っていました。内藤とうがらしはアミノ酸が多くて旨味があります。それをうまくブレンドしています。江戸時代は現代のような科学的分析がないのに、ちゃんと分かっていたのですね。

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○唐辛子は戦国時代の宣教師が伝道したの?
唐辛子は、そもそもコロンブスがインドと間違えてアメリカ大陸に到着したときに、胡椒と間違えて赤い胡椒として唐辛子を見つけました。それが日本にも来ました。
当時は戦国時代で鉄砲などが入ってきた時代。

その時代の戦国大名の一人、大友宗麟(おおとも・そうりん)というキリシタン大名の元に唐辛子が届けられました。キリスト教の布教のために宣教師たちが日本に訪れていた時代でした。

私は、司馬遼太郎「街道を行く」(22,23南蛮のみち)の本を読んで、スペインの北のバスク地方とフランスの南のバスク地方に行きました。

バスク地方は、フランシスコ・ザビエルの故郷です。ザビエルの日本での行動を確認すると、大友宗麟の領地を訪れて出会っています。その確認のために一昨年にザビエルの故郷に行ったら、ちょうど唐辛子のお祭りをやっていました。ザビエルが唐辛子を日本に持ち込んだ張本人かもしれません。ザビエルと唐辛子の関係については、誰も書いていません。ぜひ、小松庵さんに書いてもらったらいいんじゃないかと思います。

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○唐辛子の変遷を教えて?
最初、ポルトガルの宣教師から入手した唐辛子は、大名たちの間で鑑賞用として扱っていましたが、日本に伝わって100年くらい後に江戸時代の本草学者の貝原益軒がようやく唐辛子について研究をして、漢方薬として用いるようになりました。

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平賀源内も植物の研究をして、「番椒譜」の中で唐辛子について書いています。この2人の本を読むと、どうやって日本に来て、我々の口の中に入るようになったのか分かります。

観賞用→漢方薬→薬味の変遷です。

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○唐辛子は庶民から広まったって本当?
世界中で共通なことですが、唐辛子は貴族ではなく庶民から広まっています。
韓国のキムチも、秀吉が日本から持ち込んだ白い白菜漬けが唐辛子で真っ赤になって庶民に定着したと言われています。スペインやフランス、イタリアでは、貴族のテーブルの上には赤い肉や赤ワインがありました。庶民の食卓には大航海時代で手に入れたトマトと唐辛子が並ぶようになりました。食卓に赤があるのは、ものすごく嬉しいことだったんです。

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日本では、庶民のぶっかけそばがきがきっかけです。唐辛子の成分はカプサイシン。体も元気になり、脳内ではエンドルフィンが活性化して、幸せを感じます。辛いけど、中毒性があってまた食べたいと思います。

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○唐辛子と文化人の関係は?
北斎は貧しい時に、唐辛子売りをしていました。
以前、友人の杉浦日向子さんと一緒に講演をしていました。杉浦さんの原作「百日花」が原恵一監督のもと映画化。その中に北斎の唐辛子売りも現れます。
あの人は蕎麦が大好きでしたね。正岡子規は精力的に俳句をつくっています。100くらい唐辛子が出ています。
「唐辛子から生命をつなきけり」
蕎麦と唐辛子は絶妙なコンビネーションがあります。これからほしさんがお話しされると思いますが、江戸時代に唐辛子が世に出たきっかけは、ぶっかけそばです。

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○健康食、蕎麦と唐辛子の関係は?
蕎麦と唐辛子は栄養的なバランスも良いのです。
蕎麦はビタミンB、必須アミノ酸のルチンが入っています。ないのがビタミンC、ビタミンA、ビタミンE。それが薬味を入れることで、見事に調和します。

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唐辛子には食欲増進、血行促進、疲労回復、風邪引き防止などの効果があります。昔の人たちはそういうのを知らなくても、蕎麦屋で辛い唐辛子をかけてヒイヒイ言いながら食べたという感覚が良かったんですね。江戸時代から蕎麦は文化として長く続いていますが、その裏にいいものがあるから続いているのだと思っています。

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○新宿の小学校の学習で内藤とうがらしを教えてるの?
子供たちには、唐辛子の辛さは動物に食べられないようにする武器と教えています。薔薇に棘があるのと同じです。でも、唯一、鳥だけが唐辛子を食べます。
鳥は唐辛子の赤い実を食べて、いろいろなところにフンを落とします。世界に2500種類もの唐辛子があるのは、唐辛子を食べてフンすることで広めた鳥のおかげ。鳥と唐辛子の関係はすごく深いです。
これまで、私たちは7000人くらいの子供に内藤とうがらしについて教えてきました。
新宿では小学校の子供たちが内藤とうがらしを栽培して給食に使ったりしていますし、地元の野菜と認識されています。

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○10年間の活動が認められました。
農水省の日本農業大賞の優秀賞をもらったり、経済産業省の全国地域ブランド総選挙で優秀発展賞をもらったり、JR新宿駅のスタンプの図柄に内藤とうがらしがデザインされていたりと、新宿の地域ブランドとして成り立ってきました。全国、津々浦々を廻って北はオホーツク、南は沖縄で食の開発をしました。今は新宿の内藤とうがらしに燃えています。


<蕎麦は汁と薬味で食べるもの>

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ほしひかるさん(以下、ほしさん)
今回は蕎麦の薬味の話をします。
蕎麦屋に行くと、大根、わさび、葱、それに唐辛子が薬味にあります。なぜそうなったのでしょうか。夏目漱石は「吾輩は猫である」の中で蕎麦の食べ方を「蕎麦は汁と薬味で食べるものだ」と書いています。初め(室町時代)から、麺は汁と薬味で食べていました。

それが今のような蕎麦汁(つゆ)になったのは江戸中期からで、それを出汁と返しで作るようになりました。
江戸の出汁は、かび付きの鰹節の本枯れ節から取ります。

返しは濃口醤油と味醂と砂糖。これが基本です。
関東はやや硬い水、関西は柔らかい水と、日本は東西で水の質が少し違います。硬い水は鰹節と濃口醤油、柔らかい水は昆布と薄口醤油が合います。水から東西の味の違いが出てきました。

現在の蕎麦の薬味は、大根とわさびと葱と、唐辛子。これが主流です。わさび、唐辛子などの辛いものは、味覚ではありません。実は痛みや刺激です。わさびの辛さはアリルイソチオシアネート、これは冷たい刺激。唐辛子はカプサイシン、これは熱い刺激。この違いがあります。
だから、ざる蕎麦にはわさび。かけ蕎麦には唐辛子が合います。これは基本ですが、どちらにするかは好き好きですね。
 
では江戸初期はどういう汁だったかというと、味噌と水を袋に入れて作った「垂れ味噌」を使っていました。いわば、これは醤油の原型です。しかし、出汁と味醂や砂糖がないから、何か味が物足りないのです。だから薬味がたくさん使われました。大根、わさび、梅干、焼き味噌、鰹節、海苔、陳皮、胡麻などを使いました。これは文献に残っています。

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その後につゆがおいしくなると、薬味の数が絞られて、大根は埼玉県川口市の辛味大根、わさびは奥多摩わさび、葱は千住葱、唐辛子は内藤唐辛子が人気になりました。
 
<三鷹で発見された江戸時代のわさび>

ほしさん
先日、江戸のわさびが三鷹で発見されたというニュースがありました。在来種のわさびで、江戸の後期からずっと育てられていたものだそうです。DNAを調べると、伊勢市五十鈴ヶ丘で育てられたものを江戸に持ってきて、江戸時代の寿司ブームの時に江戸市中に提供していたと7月16日のニュースでやっていました。まだ試食していないので、蕎麦に合うわさびか分かりません。
 
寿司には伊豆のわさびのように鮫皮で擦ったねっとりとおろしたものが合います。
蕎麦には、奥多摩わさびのように繊維質の多いものを、金属の下ろし金で下ろしたものが合います。三鷹のわさびは、寿司に合わせたものらしいので蕎麦に合うかどうか、楽しみですね。
また最近になって、我々の仲間(江戸東京伝統野菜研究家)が江戸城濠大根という辛味大根を見つけてきました。今、それを栽培しています。近々、市場に出るかもしれません。

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江戸の薬味は少量しか使いません。その方がきれいで美しく、薬味の粋といえます。
ただ、蕎麦の食べ方も変わってきています。今は蕎麦の産地を主張するようになりました。そこから蕎麦そのものの味が主になってきています。これからつゆと薬味に対する考え方も変わっていくのかもしれません。それもまた楽しみです。

 
最後に、小松庵総本家の小松孝至社長のメッセージです。
 
社長
毎週、月曜日のこの時間は面白い話を聞けるような時間です。
文化というのは、いろいろです。音楽とか絵画とかだけではありません。“あいさつ〟とか”服装〟とか日々の生活に密着しているものも立派な文化です。もちろん“何を食べるか〟とか”どう調理するか〟も文化です。T.S.エリオットなどは「食文化の貧困化は芸術などの文化の衰退につながる」とさえ言っています。日本人は食べることに高い関心を持ってる人がたくさんいます。日本の文化はこの「食いしん坊」さんたちが支えているのかもしれません。

江戸ソバリエ協会(https://www.edosobalier-kyokai.jp/)
▼内藤とうがらしプロジェクト(https://naito-togarashi.tokyo/project/)

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