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2021年12月20日 小松庵銀座 ≡ 森の時間 ≡講師 画家 嵯峨英治さん

風戸重利プロデューサー(以下、風戸さん)
今回は、嵯峨さんに絵の題材として登場する「タマ」との半世紀を話していただこうかと思っています。
私と嵯峨さんは1994年に出会って、それから約30年が経ちました。私が最初に嵯峨さんのアトリエに行ったときに、「タマ」のモデルとなるような猫に会いました。嵯峨さんが飼っていた猫のタマちゃんで、小さくて痩せていてヒョロヒョロでした。それが亡くなる前日のタマちゃんでした。

画家の嵯峨英治さん(以下、嵯峨さん)
タマは、代々、何匹も飼っていました。タマが産んだ子を人にあげたり、自分でも飼ったりしていました。
その後も猫を飼おうかと思ったけど、自分が先に死ぬかもしれないので、風戸さんと会ったタマが最後のタマです。
私自身は、最近、名前を変えたばかりです。これまでも身体的な故障が出てきたり、アトリエでトラブルが起きたりと、色々なことを変えたいと思っていました。
そう思っていると、ちょうどいいアトリエが見つかって引っ越しすることが決まりました。だから名前も変えました。そんなこんなで70歳になりました。気持ちは20歳ですが、体は付いていけないです。


ぼくはこれまでちゃんと勤めたことがないんです。ほとんどフリーター状態でした。
ぼくは5人兄弟で、高校3年生の時に大学行きたいと思ったけど、お金がないからダメと言われたので親に無断で受験したら受かってしまった。だから、姉にお金を借りて大学に通って、それから借りっぱなしです。

風戸さん
お金がないと言いながら、その大学にも長く通っていましたよね。その後にさらにお金がかかる武蔵美術大学にも通いましたね。

嵯峨さん
最初の大学には5、6年通っていたかな。ずっと姉に頼っていました。
自分でも日曜日には丸の内のオフィスビルの掃除のバイトをしたり、朝は8年間牛乳配達をしていました。だから自分のことを苦学生かと思っていたけど、要は遊びたかっただけ。だからフリーターをしながら時間を作っていたんですね。
35歳くらいの時には父親が突然に病気で死んで、続いて母親が追いかけるように交通事故で死んで、飼っていた猫も轢かれて、その頃は暗い絵を描いていました。
でも明るく生きていきたいと思って、それにはどうしたらいいかと考えて、思いついたのが絵の具をそのままの色で描こう、ということでした。
それで、色を混ぜない、という主義でやることにしました。
その頃、ウチには猫が何匹もいましたが、猫を見ていると自由で楽しそう。それで、そんな猫を描けばいいかと思って猫を描くことにしました。そのときの猫がたまたまタマという名前の猫だったので、それから描いているのはずっとタマです。
その頃、美術の世界には「ニュー・ペインティング」という新表現主義の様式がありました。80年代には岡本太郎さんとは子供アートについて話し合ったりしていました。そんな感じで絵を描くことを続けていたら、いつの間にか70歳になってしまいました。今も飯は食えないけれど、皆さんに食わしていただいています。

参加者の方
テンペラの絵がありますが、その技法はどこで習ったんですか?

嵯峨さん
本を読んだり、カルチャースクールに通って学びました。
卵の黄身をメジウムにしたものをテンペラと言います。昔は水彩のことをテンペラと呼んでいたらしいですね。
黄身をピグメントという顔料と混ぜて、混ざらない時にはアルコールを媒介にして、さらに卵の黄身を使っているので防腐剤を入れます。下地には最初の頃は板を使っていました。板地に下地材として石膏を使って描いていました。石膏は食いつきがいいのです。でも、もっとソフトな仕上がりにしたいと試行錯誤を繰り返して、晒していない綿の生地がよさそうでしたが、布の生産ロットによって感じが違う。それで、今はアクリル絵の具の下地材の「ジェッソ」を使うようになりました。
7、8年前からこのやり方をしています。
絵は、一気に描くと書道みたいに気が入ります。それがいい感じなので、一気に描いています。

風戸さん
テンペラは油絵の前の手法で、宗教画に使われることが多いですね。テンペラは卵の黄身で描くのであまり大きな絵を描けません。ルネッサンスの頃には油絵が登場して、大きなサイズの作品が描けるようになりました。

嵯峨さん
油絵は匂いがダメなんです。テレピンの匂いがダメで、学生時代にぼくはよく保健室にいました。
その点、テンペラは臭わないし、繊細な線でいろいろなものを描き込めるし、線が綺麗に見えるし、色もきれいに出ます。
サイズはせいぜい30号。でも30号は大きくて大変。
それを描く時間があるなら、同じ時間で水彩なら20枚くらいかけます。ぼくは質より量です。
ぼくは置いてある画材はなんでも使っちゃいます。油絵具、アクリル絵の具、クレヨン。でも、テンペラはテンペラだけで描くから、心構えをします。ぼくの描いたものでは、テンペラの絵に人気があります。
その日によって気分が変わってしまうので、その日の気分で描きます。
本当は立体作品を作りたいのですが、ぼくはこれまでに交通事故に何回も遭ってしまって、バイクで転んだだけでも5~6回もあるのです。膝や鎖骨を折ったりしたこともあり、それが今も痛みます。だから立体作品は作れなくなってしまいました。
前に雪の道ですっ転んで救急車を呼んだときには、間違えて(画家仲間の山本)ミノさんに電話しちゃったり。
そんなこともあったよね?(山本ミノさん、うなづく)

風戸さん
危ないからバイクはもう乗らないでと止めてるんですけどね。

嵯峨さん
バイクはいいんですよ、好きな時に好きなところへいけますからね。ただ、バイクは危ないのです。
話は戻るけど、タマは常に夢の中にいますから行動範囲は無限。今回、このように2か月間の個展をやるのは、自分を見つめるのにちょうどいいかな、と思いました。
ホテルでも絵画の展覧会とかやってるみたいで、今後、新しい形のギャラリーはいいなと思いました。
飲食店でのギャラリーは、自分のお客さんも来るし、その飲食店のお客さんも来るし、心もお腹も豊かになるから最高の場だよね。
ギャラリーの形が変わっていくから、こちらの形も変えて行きたいですね。

風戸さん
蕎麦との相性もいいと思います。西欧料理は料理のイメージが強いけど、蕎麦屋はアートの邪魔をしないです。
そもそも、このお店をデザインしたデザイナーさんが「ギャラリーのようなお蕎麦屋さん」をイメージして作られたと聞いています。
嵯峨さんとは一番付き合いが長いのですが、やっと今回、小松庵の展示に登場してもらいました。それは、嵯峨さんの絵の反響はどうだろうかと読めない部分もあり、そのために時期を選びました。そうしたら、時期がバッチリと合いました。
このコロナ禍で、タマの絵で元気をもらえる場になりました。

参加者の方
嵯峨さんは、どうやって絵のイメージを作りますか?

嵯峨さん
この絵だと、「ここに傘みたいな宇宙船が欲しいね」「じゃ、この宇宙船に乗ってどこに行く?」「海に行きたい」という感じに発想が膨らんでいきます。

風戸さん
DMになってる絵の説明を聞いたときに「青森のりんごがおいしかった」と言うのです。だからあの絵の中には、おいしかったものを絵にするというリアリズムがあります。

嵯峨さん
DMの絵は、十和田市現代美術館に新しく収蔵された鈴木康広さんの「はじまりの果実」という作品を見て生まれました。美術館からの帰りには、りんごを買いました。トキ、シナノスイート、紅玉や世界一。青森のりんごは安くて大きくておいしいんだよね。

参加者の方
嵯峨さんは子供たちに教えているけれど、そのきっかけは?

嵯峨さん
近所のおばあさんに頼まれたからだったかな。そうやって、次第にたくさんの子供たちが集まっているのを見て、10年くらい前から区の人から連絡が来るようになって、今は何か所かで子供向け教室をやっています。
やりはじめの頃には、岡本太郎さんと子供の祭典をやりましたね。たまたまね。人生たまたまだよね。
今年は風を感じるから、それに乗っていこうと思っています。
これからは文化や芸術を身近なものとして、自分の美意識で生きていく時代じゃないかなと思います。いい仕事をやっていきたいですね。
そういう視点から見ても、飲食店兼ギャラリーのような、こういうスタイルのお店がこれからも出てくるんだろうな、と思っています。
今回は、いろいろとしゃべってしまったけど、これからもいろいろなことが混ざり合った人生を送ることになるのかもしれません。その中で、ピカッと光るものを探していきたいなと思っています。

小松庵の小松孝至社長
才能が向かう方向がたくさんあるけれど、今の時代の1番の問題は、才能があること売れる作品を生み出せることが乖離していることです。
僕たちの次の時代を開くのは観念ではなく、感覚です。これは人間だけが持っているセンサー。観念にすればシステム化が進んで固定化できます。でも、僕らはシステム化にズタズタにされました。
今の言葉で言えば「エビデンス」です。何かあるごとに「エビデンスがない」「エビデンスを出せ」。それは芸術や文化が生まれにくいフィールドです。
だから、ぼくはこの銀座にそのフィールドを作りたかった。ここにいる皆さんはそのことに勘付いてらっしゃる。
この店は小松庵のものだけど、「森の時間」はみなさんのものでもあります。
みなさんが主役になっていただいて、ここをご利用いただいて感覚を磨く場とすることで無名の小松庵が文化の育つ場になったら、とても興味深いと思うのです。ものを作るのが一番大切ですから、今までみたいに偉い人が率いる社会ではなく、末端の人たちが自分の感性を磨いて自分の能力の範囲内でどのように戦いを挑んでいくか、それが次の時代のキーワードになると思うのです。
今日はどうもありがとうございました。

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