『福島県(郡山市)の歴史』備忘録

弥生時代
稲作が始まる
霊山の根古屋遺跡
多くの骨壺が出土
人骨の歯や指に穴を開けてペンダントにしてた

古墳時代
国造
大和朝廷から任命された地方の豪族が地方を治め、中央に特産物や労力・兵力を上納する仕組み。
国造は直・君という姓を与えられた
一族の男子は舎人、女子は采女として大和朝廷に仕えた
国造→白河、石背(いわせ)、阿尺(あさか)、信夫、石城(いわき)…など、今の地名に通じるものがある
最北端は阿武隈川の河口、宮城県南部の伊具。会津や山形には国造は無かった。
装飾古墳
渦巻き模様は太陽?呪術的な模様?諸説ある。

律令国家(大化の改新)
645年蘇我氏のクーデター→中大兄皇子や中臣鎌足が実権を握る。
国造でなく土地と人民を中央国家が直接治める仕組み。複数の評(コホリ。後の郡)を統括する国を国司(後の郡司)が治める。→陸奥国が成立。
調査団、東国国司→陸奥国まで来て地方豪族の武器を確認して武器庫に保管して回った。
第二次東国国司によって、ほとんど前の国造を再編成した陸奥国が設定された。
国の領域との境には中央から官人と移民を派遣、城柵を巡らせて蝦夷に対抗しようとした。(仙台市の郡山遺跡など)会津も領域外だったから、城柵あったかも。
郡司は国造の一族がそのまま世襲していたが、700年の大宝律令の頃には、一族が連続で就任することが禁じられたり、単純な世襲でなく才能を重んじるようになっていった。
成人男子の3人に1人は徴兵→最寄りの軍団に所属して訓練(だいたい1000人くらい)
白河、安積、磐城軍団とかあった
軍団制によって国造の握っていた軍事権も剥奪することで、地方豪族の力は分散された。

国司は中央から派遣→郡司を介して税を徴収、軍団も管轄した。

今の福島県は陸奥国から分離→石背国と石城国に分けられた。
蝦夷との戦闘を支えるため、陸奥国が石背と石城の両国を統括する制度が設けられたが上手く行かず、石背と石城はまた陸奥国に統合された。

平安時代
郡は平安時代に更に分割
安積郡の役所は清水台遺跡。虎丸長者の屋敷があったとされる。
伊達は平安中期に信夫郡から分立。桑折町は伊達郡の役所があったことに由来するとされる。
白河の関は陸奥に入る時の関所。
通りたいなら、役人は勤務先、庶民は郡司に過書(通行証)を申請しないといけなかった。
陸奥守に任命された人が白河の関を通る時、気に入らない部下の名前を申告せず、通さなかった話が今昔物語にある。
浜通り北部は鉄の産地だった。
陸奥と出羽は蝦夷との外交任務(偵察、必要物資の供給、交易、接待、軍事力行使)があり、それに鉄が必要だった。
政府側→米、酒、鉄、繊維
蝦夷側→熊や海洋哺乳類の皮、鳥の羽、昆布
蝦夷は部族社会で抗争が絶えなかったので、武器が必要だった。
政府は部族対立を利用→政府に近しい部族を助けて反政府勢力を弱めた。

蝦夷の範囲
大化の改新の頃は新潟北部と仙台平野以北
平安時代には盛岡と秋田以北
鎌倉時代には北海道だけ

平安時代中期に仏教の経典を金属や陶器の筒に入れて土中に埋めるタイムカプセルが流行った。→石室に納められたものを経塚といい、中通りに点在している。(飯坂、霊山、天栄、東和など)
末法の世がこれから来る(1052年くらい)ので、弥勒菩薩が来るまで教えを伝えようとしていたと思われる。

前九年、後三年の戦い(1051~1062)
岩手盛岡以南の6郡を傘下にする安倍氏を源氏と清原氏(秋田県南部の豪族)で倒す。
清原氏が安倍氏の領地を支配下に置く
→お家騒動で清原家内で兄弟争い
→源氏を後ろ楯にして勝った方が改姓して平泉藤原氏となった
→以降100年の栄華

戊辰戦争1868年
東北十五藩は新政府から会津を討つように言われたが、連名で会津救命の嘆願書を出した。
新政府が頑として会津を討つよう迫ったため、東北十五藩は会津と手を組んで新政府軍と戦う事を決めた。後に越後六藩も加え、奥羽越列藩同盟が成立。
会津→白河城を落城させた
相馬、棚倉、平、泉、三春、二本松の諸藩は新政府の動員令を拒否し、会津に味方した。
白河城はその後、新政府軍によって奪還され、そこを拠点として福島県下諸藩の討伐がなされた。
板垣退助率いる東山道総督軍→浜通りを壊滅
三春、二本松、越後方面も次々と掃討された。
会津は1ヶ月の籠城の末に落城。

地租改正
現物納から石代納(米の価格相場に応じた貨幣納)への転換
従来の安石代でなく、上米平均相場で算出するよう通達→いわきでは従来1万7千円だったのが11万5千円に爆上がり→抗議
適正な検地に基づく適正な租税が急務となった

福島県令
明治五年~八年 安場保和
熊本藩の出身
岩倉具視の派遣団に随行したが、すぐ帰った
優秀で県令の中でもトップクラスの評価だった。
後藤新平の師匠
飯坂の十綱橋架橋
大槻原の開墾

中條政恒
米沢藩の出身
頭が良く、蝦夷地の開拓が夢だった
明治五年~福島県の典事に任命
県令の安場に信頼され、開墾事業をほぼ一任される。
異常なまでの執念で安積郡大槻原開墾を進めた
県民に開拓を勧め、開成社の設立にも奔走
後任の米沢藩出身の県令になると全く反りが合わず、開墾の道半ばで中央に飛ばされてしまった。
最後は開成山に移住し、生涯を終える。

桑野村成立まで
新政府は大久保利通を中心に殖産と士族授産を国是としていた
→福島県令となった安場と中條はすぐに「福島県は二本松藩士族が窮乏しており、開墾前の土地がたくさんある」と大蔵卿井上馨に資金援助を要請
→もっと詳しい情報を寄越せと指令
→すぐに安積郡の各村長を集めて開墾の重要性を説明
→郡山、富田、大槻、小原田の入会地(共用地=大槻原)の調整
→安場は自ら二本松に出向き、士族に開墾の重要性を説明、安積移住を勧めた
→中條を中心に開拓掛を創設
→県民に告諭書を発布し、広く開拓者を募った

先の開拓資金援助申請の具体化
「五通合巻開墾書」
自力開墾
十年は免税、肥料や衣食住に困ったら金を貸してもらえる
手当開墾
国から開墾資金を無利子貸与
官費開墾
懲役人を使用→実際は行われなかったぽい
→開墾資金一万五千百円借りられた!
(無利子七年)

安積開拓の三つの型
①福島県が主体
明治6~
二本松士族を桑野村に移住させて開拓させた
今の安積高校前に移住者三十戸が並んだ
台新とか菜根を開拓

②開成社が主体
郡山の富商に呼びかけて開成社を設立
開成社が小作人などを募った。
開成山公園を作って桑野、朝日、亀田を開墾

③明治政府が主体
明治11~16
国費によって全国各地から士族500戸を移住させ、開墾にあたらせた。
安子ケ島、喜久田、富田、牛庭、三穂田、大槻の各村に約1000ヘクタールの新開地を出現させた。その延長線上に安積疏水がある。

明治九年、桑野村は①②によって作られた
大半は大槻、富田、郡山、小原田の入会地の草地と雑木林で、元々住んでいたのは十七戸119人
→三年後には人口900人になった
その頃でも、まだインフラは整備されておらず、道は泥でぬかるみ、風が吹くと塵が煙になっていた

中心を開拓道路(今の49号線)が通り、開成山大神宮を起点に北町、南町、町東とした。
北は亀田(うねめ通り)、南は菜根(五百渕)、西は島、大槻(バイパスの内側)、東は米沢、鶴見坦
43%が新開地、38%は旧地(合併)。
面積の30%はまだ雑木林と草地だった。

当時の人口はだいたい二百四十ニ戸900人
二本松士族は三十一戸139人、
開成社の小作人八十三戸335人、
その他
旧地(合併)十七戸129人
(三瓶、佐藤が多い。その他、伊東、遠藤、
古川佐代之助=台新田13)

二本松士族は代理人を住まわせて地元に住んでいたり、開成社の小作人は出入りが激しかったので、実際に住んでいたのは二百三十戸くらい

二本松士族の移住
士族は全国で四十万戸二百万人。
旧幕の頃から生活は厳しかったのに、廃藩置県で給料を従来の数分の一に減らされた
→徴兵制で国民皆兵となったので、更に存在意義を失った
当時の福島県には二本松藩しか無かった
(福島藩は愛知の三河藩に吸収、藩主は藩士を連れてそっちに行っちゃってた。白河藩も棚倉に吸収されていた。三春と棚倉は違う県だった。)
二本松藩は戊辰戦争で最後まで政府に楯突いてたので余計に冷遇されていた。
安場県令の説明会で、その場で五名が志願。
19戸が安積高校の通りに軒を連ねた。
住居ができるまでは大槻や富田の農家の納屋や隠居所、寺院に仮住まいして、開墾地に通った。

開拓農民を目指したはずが、10年経って農業を営んでいたのは三十戸中四戸で、他はほとんどが役人などのサラリーマンになっていた。目標の一町を開拓出来たのはわずか三戸だけだった。
元々の地元民でも貧しかったのに、慣れない開拓や農業を士族が営むのは難しかった。読み書きができたので役人とかの方が向いていた。

実際に士族が活躍する事にはならなかったが、士族の移住に刺激されて後からついてきた一般民が士族の2倍くらいいた。(200人くらい)

開成社
中條が目を付けたのが阿部茂兵衛
郡山の実力者↓
阿部茂兵衛(47)、鴫原、橋本、安藤、津野
中條は世界情勢や国益を引き合いに必死で説得したが、当時の商人にとって開拓事業に金を出すのはとんでもないギャンブルだった。
米沢狐(中條)に騙されるな、と噂された

25名の出資により、明治6年に開成社は設立した。
社則を作る過程では資本投入の見返りに小作地の確保とその維持を念頭に置く社員と福島県側で激論になった。
社員は世襲制
出資高に応じた個人所有地の確保
地主(貸し主)と小作人(借り主)の関係はアパートの契約書に近い内容
小作人が農業に精を出さないなら立ち退きさせても良い→後に揉める
開成社の開拓地は社員外に売ってはならない

阿部茂兵衛(47)
社長
役人に対しても堂々と意見する剛毅な人柄
先祖は田村の小野出身で、帯刀を許された町年寄だった
小野屋(呉服、質、両替)

鴫原弥作(44)
副社長
先祖から町年寄
扇屋(呉服から旅館・貸座敷で繁盛
戊辰戦争後は綿、油、砂糖、金物、質、金融)
明治中頃には木材、味噌醸造で阿部と肩を並べた

橋本清左衛門(34)
郡山大町で「伊勢屋」(呉服、質、旅籠)
後に真正社など設立→一大財閥を作り上げた

安藤忠助(47)
中町の銘酒泉川の醸造元「富屋」
安積国造神社の神職安藤家の一族
戊辰戦争後は生糸取引で財を成した
正製組を設立

津野喜七
沢屋(呉服・質)

橋本藤左衛門
西伊勢屋(呉服・質)

斉藤
富屋
図書、教科書を独占的に取り扱い→後に甲斐山に譲った

遠藤助右衛門
河内の原に住んでいた
河内屋→沢屋(呉服)
明治には味噌醤油醸造

増子
質屋

佐藤伝吉
佐藤ボーキ
雑貨、砂糖、石油、粉、油の問屋

永井
質屋
郡山に痕跡はもうない

柳沼恒五郎
繭の売買で儲け、自家桑畑を作り、蚕卵紙の生産に成功
一代で名を成した

横山貞吉
叶屋(味噌)

山口哲蔵
酒造(山桜)
今も安積にある

甲斐山
虎屋(教科書)
正製組

横田
阿部茂兵衛の分家
子孫が、えびや楽器

開成社の小作人
家屋は一戸建て
開成山大神宮から49号線沿いに北に78番地
今でもその頃の名残がある
家の外に水路と裏道
入居者の出入りは激しかった
1/3は安積郡内から。
他に新潟や鳥取、相馬や双葉、東京からも来ていた
三名が怠惰だからと退去勧告
→小作人はずっと住めると聞いて来たのに話が違うと訴訟に
→小作人33人が宅地分与しないと出ていくと詰め寄る
→開成社も出ていってみろと突っぱねる
頑張った小作人にボーナスをあげる制度を導入

桑野村の農業→生産性が低かった
通常の四分の一の収穫量

開成山の北は低湿地で水田、南は高台の乾燥地で桑畑になったが、安積疏水は北の水田にしか引かれず、桑畑は次第に荒れ果てていった。

明治九年六月、明治天皇が桑野村の開成館に泊まった。
当初は昼食に寄るだけの予定だったが、阿部茂兵衛の働きかけにより、泊まることになった。
それに先駆けて内務卿大久保利通が視察、中條が半田山を見せるなど対応。その夜、小布袋屋に泊まった。中條は大久保利通に安積開拓と安積疏水の重要性を説き、それが後に実現した。

開成二丁目に中條の邸宅跡地がある。
日本大学教授横井博氏が住んでおり、中條の研究をしている。

南町界隈
二本松士族のエリア→長く定住
ムナカタガソリンスタンド→二本松士族の宗形安次郎(米穀商)

北町界隈
小作人のエリア→出入り激しく、二代三代定住することはほとんど無かった

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