源融と亡霊の話➊
此附近 源融河原院址
東山七条にある京都国立博物館を訪れた帰り、四条河原町まで歩きました。
七条通を高瀬川で右折し、川沿いの木屋町通を北上します。この道は五条大橋の西橋詰に突き当たります。五条通のほんの少し手前に、外壁が黒い焼杉板の建物があって、お稲荷さんの小さな鳥居が張り付くように立っていました。
すぐ前に一本の榎の木と石標があります。石標には「此附近 源融河原院址」と彫られています。
源融は、あの『源氏物語』の主人公光源氏のモデルになったとされる人物で、河原院は、彼が営んだ広大な邸宅です。『源氏物語』では、栄華を極める光源氏が広さ四町に及ぶ六条院を造営しますが、源融の河原院がそのモデルの一つだと言われています。
写真の案内板によると、「東西は現在地(鴨川)から柳馬場通まで、南北は現五条通から六条通(一説に正面通)に及ぶ広大な敷地」であったということです。
地図で見ると、この「源融河原院址」の石標は、かつての河原院の北東附近にたてられていることになります。
対角線の反対側、南西を見ると、東本願寺の別邸「渉成園」があります。この庭園にも、源融ゆかりの供養塔が残っています。
源融と河原院
百人一首に、この源融の歌が入っています。歌人名は「河原左大臣」です。
陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに
源融(弘仁13~寛平7)(822~895)は嵯峨天皇の第十二皇子で、臣籍に下って源氏姓を賜りました。貞観14年(872)、50歳で左大臣になっています。
『伊勢物語』第81段に、河原左大臣の話があります。
むかし、左の大臣いまそがりけり。賀茂河のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて住み給ひけり。十月のつごもりがた、菊の花うつろひさかりなるに、紅葉のちぐさに見ゆるをり、親王たちおはしまさせて、夜ひと夜酒飲みし遊びて、夜明けもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。そこにありけるかたゐおきな、板敷のしたにはひありきて、人にみなよませはててよめる。
塩竃にいつか来にけむ朝なぎに釣する船はここに寄らなむ
となむよみけるは。陸奥の国にいきたりけるに、あやしくおもしろき所々多かりけり。わがみかど六十余国のなかに、塩竃といふ所に似たる所なかりけり。さればなむ、かの翁、さらにここをめでて、塩竃にいつか来にけむとよめりける。
左大臣源融は、河原院に陸奥国塩竈の風景を模して庭園を作り、尼崎から毎月30石の海水を運んで塩焼き(製塩)を楽しんだといわれています。
『伊勢物語』第81段では、一人の「乞食翁」が、「日本六十余国の中に、塩竃という所ほど素晴らしいところはなかったと思いますが、都にいる私は、いったいいつの間に陸奥の国の塩竃に来てしまったのでしょうか」と詠んで、この邸を誉め称えたのですね。
ちなみに、この「乞食翁」とは、『伊勢物語』の主人公とされる在原業平のことです。
世阿弥の能に『融』という作品があります。
舞台は六条河原院で、前シテには潮汲みの老人が、後シテには融の大臣の亡霊が登場します。
平安時代には、都に大きな邸宅を構えた貴族が何人もいましたが、自邸の庭に塩竃を造って塩焼きをするような人はほかにいないでしょう。
河原院は、このように贅を尽くした豪邸でしたが、源融にも死期が訪れます。河原院は次男の昇が相続しますが、昇はこの邸宅を宇多上皇に献上しました。さらにその後、融の三男の仁康に与えられて寺院となりましたが、それも数度の火災に遭い、やがて荒廃していきました。
今回は「亡霊の話」まで行き着きませんでした。河原院に源融の亡霊が出るというお話は、次回のお楽しみということにします。
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