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湿気を生きる

ども。
毎度院長です。
今年は梅雨明けが早く、6月中から真夏のような天気でしたが、ちょいとクールダウンする時期もありほっとしておりました。
で、ようやく暦的には真夏本番の時期に入り、それに伴い例年通りの暑さの中で、拙者はクーラーなどを入れずに、汗をダラダラかきつつ読書したり、こうやってブログを更新したりするのが、毎年恒例の休日の過ごし方なのでした。
「今日も沢山くっせー汗かいた!」とかの充実感がたまらない。(?)
クーラーを入れると湿気が少なくなるのがなんとなく嫌なんす。サラッとした感じになるでしょ、あの感じが物足りないんす。
で、そんな臭い拙者が最近読み続けている河合隼雄氏の本と並行して読んでいた本に関して、今回取り上げてみたいと思うております。

拙者が医学部在籍中の大学5年の頃、卒業後の進路について考えておりました。
どうせなら外科系に行きたいと思うておったのですが、当時問い合わせた複数の医局からは、手術機材が右利き用しかないと言われたり(拙者左利き。右手では鋏がうまく使えなかったり、右手の握力が左より弱く、右手はかなり不器用なのです)、体力的な自信が持てないことなどの種々の要素から、消去法的な形で精神科医を選んだという経緯があるです。
とはいえ、精神科専攻について決め手となったのは、精神科の授業がかなり面白く感じていたから、というところがありました。
何が面白かったかというと、その「物語性」であります。
例えば、「エディプスコンプレックス」とか、これ文学部の世界ですか?的な驚きでした。
そして精神科の授業で、また別の症状の説明を聞くわけです。

ある分裂病者は、犬について三つの奇妙な、意味深長な体験をしているが、その最後の体験を次のように語っている。「カトリックの修道院の階段の上に、一匹の犬が直立の姿勢で私を待ち伏せていて、私がそばによると、まじめな顔で私をみつめ、一方の前足を高くあげました。たまたま私の数メートル前を男の人が歩いていたので、大急ぎで追いついて、彼にも犬が挙手の礼をしたかどうか急いでたずねました。その人が驚いたように、『いいえ』と答えたのを聞いて、私はこれは明らかに天の啓示に違いないという確信を持つようになりました。」

(臨床精神病理学・シュナイダー)

それまでの例えばナトリウム・カリウムチャンネルがどうしたとか、ネガティブフィードバックがどうのとか、生理学とか細胞生物学とかの難しく専門的な講義からは、これらの精神科講義はかけ離れた感じがしたのです。もちろん今生理学を改めて見直してみると、整然とした物語性があり魅惑的なのですが、当時はそういうふうには全く捉えることができない状況でした。
そんなこんなで、文学的でちょっと哲学的な匂いのする精神科、引用文のような世界観の存在を認めている分野に対する関心から、拙者は精神科の道に入ることになったのでした。
拙者自身、常々結構な多数派・中心部への憧れがあるにもかかわらず、どこか周りからは外れているような感じがしていた身において、精神病圏の世界観に触れることは、何かしらの安心感がありました。
このような、なんとなくではあるものの持続する自分への違和感を抱いたまま、我が身に起こるあれこれの不条理さをぼんやりと感じつつも日常生活はこなす、というような生活を精神科医になった後もずっと続けていました。
この感覚にある程度の折り合いがついたというか、その不条理さを面白く感じだしたのが、聖書との出会いでした。
聖書は人間にとって不条理の塊というような書物で、人間同志の、そして神との関係においての種々の物語が赤裸々に描かれています。
こういう聖書の「物語性」に関して、拙者は興味を持ったのでした。
確か上沼昌雄氏、藤掛明氏、谷口和一郎氏の鼎談がまとめられた本、「聖書と村上春樹と魂の世界」の中で、「村上春樹は、聖書は全人類のオープン・テキストであるようなことを言っている。つまりは人として直面するあらゆるテーマが聖書にすでに描かれていると見ている」というような記載があったと思うのです(今手元にその本があるが、どこにそれが書かれていたのか探し出せぬ)。
これはほんまにそうだよな、と思います。あらゆるテーマが描かれているといっても、そこに答えがあるわけではない。ただ人が直面するすべての課題が聖書に描かれているということ、つまりは自分の課題が聖書に描かれているということ。
こういう気づきから、それまでバラバラに感じていた自分の体験が、徐々に物語として捉えられるようになってきたのでした。
そしてそれは見覚えのない物語ではなく、聖書の神話とも繋がってくる。このことの面白さを感じているところです。
ちなみに、noteにブログを移転してからあまり出てきていないえぜる亀と拙者との出会いについても、昔話の浦島太郎を下敷きにしております。これらについては、ころころえぜる日記ライブドア版(2011年12月27日)に詳しく記載しております。リンク貼っておきますので、よろしければそちらもクリックしてみてください。

当初、メタファーとしての神話や昔話が、拙者にとってそれらは自分の人生のメタファーどころか、逆に自分の人生がそれらのパロディにしか思えなかったのですが、徐々に自分自身のうちで生き生きとした物語になっていくことの面白さを感じております。
こういう気づきから、今回は「嘘を生きる人 妄想を生きる人」という本を取り上げてみることにしました。
この本では、空想虚言者であったオウム真理教の麻原彰晃などに代表される”嘘を生きる人”、稀代の詐欺師として名が広まったカリオストロのような”神話を生きる人”、そしてパラノイアのような”妄想を生きる人”を考察しています。
それぞれ固有の物語を生きるという点において、以下の著者の指摘には深く納得するところです。

われわれの(とりわけ現代人の)自我というものは、非論理的なものや非合理的なものが苦手なので、現実を無視してでも整合性や統一性を求めるものなのである。逆に言えば整合性や統一性を追求しすぎると現実の豊かな生命力、、、、、、、、、は失われ、自我の作り出す”虚言”に近づいてしまうということである。生きた現実というのは、無意識に根ざした豊かな矛盾を内包したもの、、、、、、、、、、、、であり、したがって《生きた神話》の特質も、まさにその矛盾の中にこそあるといえよう。

(嘘を生きる人 妄想を生きる人・武野俊弥)

今の拙者にとって、特に旧約聖書のなかの矛盾が生きた神話として受け止められるようになってきており、また自分の人生の不条理や矛盾についても、これもまた生きた現実なのだと受け止められつつある状況です。

最後に、今回読んだ本の中で心を打たれた部分がありましたので、引用します。著者の別の本、「分裂病の神話 ユング心理学からみた分裂病の世界」に共感した、統合失調症の方からの手記を掲載した部分です。

私は自分が精神病だと言われても驚かない、そうかもしれないと思っているから。でも、それはただの病気ではない。それは私にとってかけがえのない人生であり、それこそ私が生きている理由であり、意味であり、またストーリーであるから。

人間には果てしなく意味がある。人間の心には大海のような意味が潜んでいる。人間の心の中には意味の宝箱が隠されている。それと共にあることこそ、人間の心や行動の中にある良い意味こそが、人間が受け取れる最高の果報なのだ。だが、病院はこう語る。「何ごとのなかにも意味はない。意味については忘れなさい。何についても意味を感じてはいけない。」

私は、誰であろう、ひとりの人間であり、魂であり、そして謙虚で、真剣で、神を愛し、祈り、歌い、人生をひとつの花のように、あのミューズを喜ばせるものにしたいと思っている。

できるかぎり、何も強制されたくない。医師には、家族の味方について欲しくない。医師には、頭がおかしいとは言われたくない。医師には、理解をもらい、家族から守ってもらいたいと願っている。

そして私は冒険を愛し、それは魂のなかでは続いている。医師や家族が、私の狂った思いに対して敵にまわるなら、ただ収監したり、強い薬を強制するだけでは、私には味方がいないから、私には死を選ぶしかなくなる。なぜなら、私の魂が罪だとされているからだ。私には味方が必要だ。神を、意味を、狂気を尊ぶことのできる誰かが。社会適合だけが、人間の目指すすべてではない、と言ってくれる誰かが。人生には、冒険も危険も愛も勇気も必要だと、それはすべて自分の責任だし、家族がとやかく言うことではない、と言ってくれる誰かが。社会は狂気を容認すべきなのだ、と主張し、狂気のパトロンになってくれる誰かが必要なのだ。

そして私は、それでも、ないとわかりながらも解放の日を待ち続け、あるはずのないゴールに向かって、狂ったドンキホーテのように、奇妙なことを続ける。私は今、声の女とつきあっている。それから引き裂かれたくもない。

名前などどうでもいい、キリストであろうと、ブッダであろうと、ただの村の薄馬鹿でも、でも狂うとき、そこには美がある、そこには愛が待っている。そこには人生で長らく探し求めた意味が待っている。狂った者の恋人、それは神だ。どうか狂うことをとがめないで欲しい。できれば、世界中の人間に「狂って」もらいたい、と私は願う。世界中が狂うならば、世界には正義が宿る可能性がある。世界中が狂うならば、神が想像上の人物や概念でなくなり、人びとの無意味ですぐに朽ち折れていく人生が変わる可能性がある。狂う者は尊い、狂う者は神に出会う可能性をもっている、狂う者は、誰が自分の本当の支配者か知っている、狂う者は運命を恐れない、狂う者は誇り高い、狂うものは清らかな夢を望んでいる、狂った者は歌う、狂った者は踊る、狂った者は、愚者たちを笑う。

(嘘を生きる人 妄想を生きる人・武野俊弥)

この患者の、生き生きと生きることへの希求と、そこから生じる悲痛な叫びに、拙者むせび泣くであります。