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レッスン14.「変わりたい」の原石が詰まっているから、嫉妬を肯定して生きていたい

自分の中に生まれる嫉妬という感情に、この頃、落ち着いて対処出来るようになってきた。20代前半まではコンプレックスを刺激する相手に出会ったときなど、内心、それはもうごうごうと炎を燃やしていた。

例えば、絵本に出てくるお姫様のような、ふわふわの天然パーマに憧れ続けていた私は、そんな女の子に会う度、心がきりきりしていた。人目も気にせず自分がやりたいことに夢中になれる人たちを見ると、やりたいことが定まっていることと、継続する力があることの両方に嫉妬していた。


嫉妬は醜い感情と言われるから、誰かをねたましく思うとき、私は心のどこかで「いけないことを感じている」と罪悪感に苛まれていた。人前で嫉妬心を隠そうとしても、無理はいつか綻ぶ。ぶさいくな態度を取り相手を困惑させたこと、険悪なムードになってしまったことは一度や二度ではない。

しかし、20代半ばに差し掛かった頃から、嫉妬という感情そのものは肯定的に捉えてよいのではないかと思うようになっている。誰かをねたましく思うときとはどんなときか。相手が自分の欲しいものや望ましいものを持っていて、自分には現在それがないことを嘆くときだ。嫉妬の中には自分の本心が混じっている。その本心は自分がより自分らしくあるためのヒントを大いに提供してくれる。自分がどうありたいかを教えてくれる原石が嫉妬だ。感情を無視するのはもったいない。

そのほの暗い感情の塊を丁寧に分解していけば、自分はどんな状態の自分に憧れていて、なぜ今それが手中にないのか、どうすれば手に入れられると思うかなどを検討できる。「何の」「どんなところに」「どんな風に魅力を感じていて」「その理由はどこにあるのか」「手に入ったらどんな気持ちになるか」などを詳細に内省することで、自己理解の解像度は上がっていく。


悲しいことに憧れは必ず自分のものになるとは限らないが、こればかりは時間や偶然、気持ちの変化に期待するしかない。人生に救いがあるとすれば、嫉妬していたものが本当は、そこまで欲しいものではなかった、ということが起こりうることだろう。

天然パーマに憧れてパーマをかけてみたものの、絶望的なまでに似合わず大ショックを受けた。鏡を見る度、シャープな顔とふんわりした髪のちぐはぐさにちょっとしかめっつらし、その表情に自己嫌悪し、自信をなくしていくループに陥った。数年後、何度かパーマに挑戦してみても結果は同じだった。

転機は、半ばやけっぱちになって「いっそばっさり切ってしまおう」とショートカットにしたことだった。鏡を見て、生まれて初めて、自分で自分のことを「しっくりくる」と思った。以来、お姫様ヘアの人を見ても「まあでも、今の私の髪型は私に似合っているし」と、あまり気にならなくなった。

私が本当に欲しかったのは「お姫様ヘアが似合う自分」ではなく、「絵本に出てくるお姫様のように周りから尊重される自分」であり、「髪型がいい感じに似合っている自分」であり、「童話のヒロインのように心優しく聡明な自分」だったのだ。

とにかく、嫉妬そのものは悪くない。まずいのは、感情に手綱を取られ嫉妬心を無視したり、誰かを不快な気持ちにさせたり、本来良好な関係を築ける可能性のあった相手の信頼をみすみす失ったりする事だ。何度でも言うが、嫉妬は別に構わない。何を思ってもいい。だが、そのうちどれをどんな風に表に出すかは考えなければならない。


28歳間近になってようやく嫉妬心との向き合い方が定まってきた訳だが、今度は、嫉妬心のハンドリングに不慣れな過去の自分のような人を嫌ってしまうのではないかという怖さもある。そんなときはどうか、その人が何のどんなところに嫉妬しているのかに、相手の「変わりたい」の原石に気づける人でいたい。

難しい課題だとは分かっている。でも、それがなりたい私なのだから、生きていきたい私なのだから。私を生きていくために、当分諦めるわけにはいかない。



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