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ミニマリストだった頃

リビングにはテーブルと椅子だけ、クローゼットはガラ空き。ゆるミニマリストではなく、ちょっと激しいミニマリストだった頃のこと。




手放す快感

何がきっかけでミニマリストに目覚めたのかは覚えていないんだけど、結婚して、新居に2人の物を持ち寄って、そこからふつうは家具を揃え始めるところ、私は物を減らし始めていました。

最初は少し整理して(減らして)、そこから夫婦の新しい暮らしを作っていくつもりでの断捨離。
しかし、荷物の整理を進めているうちに、段々と手放すこと自体が目的になっていきました。
もっと減らしたい。まだ減らせる、もっと、もっと。

手放すこと自体が快感になっていたのは、ひとつ物を手放すと、またひとつ身軽になったような感覚があったから。

自分の断捨離が終わっても、まだ断捨離し足りない。夫がインテリアに興味がないことをいいことに、私は徐々に断捨離の範囲を広げて、最後はボールペン1本に至るまで、家の中を断捨離し尽くしました。

もうこれ以上は減らせないというところまできて、リビングに残ったのはテーブルと椅子だけ。
クローゼットはすっからかん。


得たもの

物が無ければ、掃除が楽になります。
テーブルと椅子しかなかった頃は、家の中は常にピカピカでした。
障害物ゼロの部屋をルンバがスイスイ通り抜け、退ける物がないので、床の拭き掃除もはかどります。
ホコリなんて、溜めたくても溜まらない。

物がなければ、物を管理するために時間を使わなくて済みます。
物を増やさないのであれば、買うものを探したり、選んだり、迷ったりする時間も不要です。

私にはこれだけ、これ以上は持たない、と決めると、物欲との戦いと無縁の世界が開けて、心も軽くなった気がしました。


物に溢れた生活をしていると、暮らしや思考も散らかりやすくなります。私はなんだか上手くいかない時、空回りする時、ちょっと物を手放します。

ストレス発散でお買いものに走ると、その瞬間は気持ちが晴れるけど、大抵はなんの解決にもならないことに気づけました。
空回りしている時ほど、極力新しいものは迎えず、身辺整理をするようにします。
といいつつ、買っちゃうんだけど。自戒も込めて。


失っていたもの

物に執着しすぎしない、これも大切な思考だと思うのですが、愛着を持とう、とか、暮らすを楽しもう、というマインドが欠けていました。

私の場合は数時間後に引っ越し!と言われてもすぐ行けます!というようなレベルまでやり込んでしまっていて、その時は生活に「遊び」がありませんでした。


私は元々物を集めることが好きで、収集癖もちょっとある、こちらの記事に書いたような集めることに喜びを見出すタイプです。
なぜミニマリストができていたのか、今では不思議なほど。

そんな私がミニマリストだった頃は好きな「物」について語ることができませんでした。

物に執着しないことが美徳。物を遠ざければ遠ざけるほど身軽になれる、身軽になりたいと思っていたけど、自分が好きな物まで手放して身軽になることに意味は無かったのかもしれない。

いまは、愛着を持った物に囲まれた暮らしが、それが最小限でなかったとしても、ちょっと多くても良いのではないかという考えに変わりました。


ミニマリストからの卒業

ミニマリズム(最小主義)と合理主義は相性が良く、ミニマリストだった頃は、減らすことは増やすことよりも合理的だと感じていました。

私が身軽になりたい、合理的でありたかった時期にミニマリストという考え方に出会い、そこへ私のストイックな性格がプラスされて、あっという間に激しいミニマリストが誕生。

嬉々として断捨離を進める。好循環なのか悪循環なのか分からないまま断捨離にはまり込んでいましたが、結局子どもが生まれて物が増えたことで、自然とミニマリストを卒業していました。

子どもはある意味、ミニマリズムとは対局とまではいかないけど、少し遠いところにあるかなと思います。

子どもの成長と共に物も増えて、今はこのとおりです。


ちょっとキャパオーバーを感じて、身軽になりたいと思っていた頃。
私の断捨離は好きな物も何もかも一旦全部手放して、荷をおろすという選択でした。
投げやりで、ちょっと収集癖のある私には合っていなかったように思います。

また次キャパオーバーになったら、多少物を抱えていて身軽でなくても、捨てずに抱えられるだけの余裕と器量を持つ方向で頑張れると良いかなと思っています。

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