【刊行記念・期間限定一部公開!】『トンネル』(ベルンハルト・ケラーマン/秦豊吉訳)識名章喜さん解説(部分)【2020年10月30日まで】

舞台はニューヨーク――青年技師マック・アランには、長年温める壮大な計画があった。アメリカとヨーロッパを24時間で結ぶ「大西洋横断海底トンネル超特急プロジェクト」
アランは老獪な大銀行家ロイドの協力を仰ぎ、投資家からの資金集めに成功する。完成期限は15年……未曽有の大工事に18万人の労働者を動員、人類史上かつてないプロジェクトがはじまった。ニューヨーク郊外の荒地には新都市マック・シティが出現し、アランは世界中の夢を背負い、工事は順調に進んでいく。
襲いかかる爆発事故の大惨事、株の取り付け騒ぎ、労働者の暴動……艱難辛苦の果てに、果たして列車を走らせることはできるのか?

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国書刊行会編集部の鈴木です。初noteです。

わたしがケラーマンの作品『トンネル』に興味をもったのは、手塚治虫氏の以下の文章に目を留めたからでした。

「ぼくがいかにこの通俗大衆小説から刺激を受けたかは、ぼくのごく初期の作品である『地底国の怪人』に地底列車を登場させ、『トンネル』の主人公たちの名前を、その後の作品でしきりに流用したことで察していただけよう。そのうえ、SFがかくも氾濫している現在でも、人にSFベスト作品を挙げるようにいわれれば、この『トンネル』を十指のなかに入れることにいささかもためらいはないのである」(手塚治虫「忘れられない本」朝日新聞1977年5月16日付)

それに重ねて、筒井康隆氏。

「読む気になったのは手塚治虫の「地底国の怪人」がこの『トンネル』から着想を得ているということを聞いたからだ。あの手塚治虫にヒントをあたえたほどの作品なら面白い筈と確信して読みはじめたのだが、たしかにこれは面白かった」(筒井康隆「ケッラアマン『トンネル』」)

この推し方を読んだなら、わたしならずとも読んでみたくなるのが人情というものでしょう。
手塚治虫をして漫画を描かせた作品とはなにか?
新潮社版・第二期「世界文学全集」12『トンネル 外二篇』。二段組の旧字・旧仮名。昭和5年のものですから当然です。
しかし旧字・旧仮名なんてなんのその、一気に読了。面白い! これはエンターテインメントとしてまったく現代に通じる作品。第一次世界大戦前のドイツ人作家がこのようなスケールでアメリカを舞台に波乱万丈のストーリーを描いていたのに驚きます。良い意味で、ドイツ文学とは思えないエンターテインメント。ドイツ人が描いたアメリカンドリーム。
投資家たちとのせめぎ合い、労働者の群集心理など、まったく現在に通じ、ひとつの経済小説とも読める。そしてなんといってもこの近未来感――本作がドイツSFの嚆矢と言われるのも納得です。

訳者は秦豊吉。
日劇ダンシングチームをプロデュースし、帝国劇場社長としてミュージカル女優・越路吹雪を育てあげた猛者。レマルク『西部戦線異状なし』の訳者として知られ、「原文よりも面白い訳文」と定評のある秦豊吉ですから、本作で万国博覧会のごとくさまざまに登場する人種を、劣悪きわまりないトンネル掘削現場を、交錯する謀略を、あるいは恋愛模様を生きいきと描いてゆきます。作品と訳者のベストマッチング、読後感は映画のごとし。
1913年刊行後、4週間で1万部、半年で10万部を超え、1913~43年に37刷を数え、世界25ヶ国で翻訳されたドイツ初の国際的ベストセラー小説。若き日のヒトラーも読んだ、ということですが。

こうして手塚、筒井両氏のエッセイも収録して、まるごと『トンネル』ワールドで刊行しようとあいなったのでした。

しかし本書を新たに現代に問うならば、新字・新仮名で読みやすく改訂するのみならず、さらにドイツSFの地平からも読み解きたい。そこで解説を慶應義塾大学教授・識名章喜さんにお願いしました。識名さんは30年以上前すでに『トンネル』で論文を書いている、ホフマン研究者にして、ドイツSF研究者です。さすがこの世界に精通しているだけあって(識名さんにとっても思い出の一書であることもあって)、素晴らしい解説を寄稿いただきました。
加えて識名さんには、訳者がすでに亡くなられているなか、翻訳上不明点のドイツ語原本での確認に御協力いただき、また今回新たにトンネルの経路の地図も入れたのですが、その停車駅の位置について頭を悩ませていたところ適切なアドバイスをいただいたりと、大変助けていただきました。

さて、前置きが長くなりました。
下記に、刊行記念として解説の一部を公開いたします。

★  ★  ★

《幻の訳書の復刻によせて――ケラーマンの『トンネル』について》識名章喜(全5節のうちの第2節)

★『トンネル』はSFか?
 ドイツ語圏において《サイエンス・フィクション》という英語の概念が使われるようになったのは第二次大戦後のことである。それまでは「未来小説」とか「ユートピア小説」、「科学小説」、「技術小説」といった用語が一般的であった。ヨーロッパと北米大陸をアゾレス諸島・バミューダ群島経由で結ぶ全長5000キロの大西洋横断海底トンネルという大プロジェクトの構想は今日でも実現をみていないから、SF的アイデアと見なされ、ドイツ語圏のSF史では、『トンネル』は数少ない先駆例として言及される作品でもある。ただケラーマンは刊行時に「未来小説」や「技術小説」といった呼称を用いず、「長篇小説(Roman)」とだけ記している。
 大陸横断トンネルと弾丸列車をSF的と言うなら、実はケラーマンよりだいぶ先にアイデアを出した人がドイツにいた。ドイツSFの父と呼ばれるクルト・ラスヴィッツ(1848-1910)である。ラスヴィッツはゴータ市のギムナージウム(旧制の高等学校のような教育機関)で物理を教えるかたわら、科学技術上のアイデアに基づく小説を数多く書いた科学啓蒙家だった。一番有名な作品は、金星人の地球侵略と平和的解決による交流をテーマとした『二つの惑星にて』(1897年、松谷健二訳『両惑星物語』〔早川書房、1971年〕は抄訳)である。
 さてこのラスヴィッツが作家活動の初期に書いた連作短篇が「宇宙の法則に逆らって。3877年の物語」(1877年)である。そこで3868年に「二十年の歳月をかけた工事の末」「巨大なドイツ―カリフォルニア・トンネルが完成」する話が出てくる。これはケラーマン以上に大胆である。地球の中心近くを縦貫するようにトンネルを掘れば、列車は最短の直線軌道で、しかも地球の重力の助けで加速できる、というアイデアである。物理の先生らしくトンネルの深度や傾斜角度まで数字を挙げ、地下工事における酸素不足に対しては液体酸素で解決する対策を示し、ケラーマンの記述ではなおざりにされている技術面での細部がとりあえず科学的に説明されている。
 ラスヴィッツのトンネル計画に比べれば、ケラーマンのアイデアは一回りスケールが小さい。ラスヴィッツが亡くなるのが1910年、ケラーマンはラスヴィッツの死後、その39世紀のプロジェクトを、盗用とは言わないまでも、ちゃっかり借用して、近未来の20世紀版に書き換えたのかもしれない。ケラーマン独自の科学的アイデアは主人公のマック・アランの発明した掘削用の、「ダイヤモンドよりわずか一度だけ硬度が低い」「アラニット鋼」くらいだ。その代わりケラーマンはトンネル・プロジェクトを、投資、起業、運営、雇用、宣伝、メディア対応(トンネル工事を撮影する映画会社の設立)、都市計画(工事に携わる労働者たちの町の誕生)といった一連の経済活動のいかにも人間臭い面も含め具体的・立体的に描く。当時生まれたジャーナリズム特有の電文体を駆使した簡潔かつセンセーショナルな表現といい、すぐれて映像的な比喩といい、躍動する機械時代のリアリズムが伝わってくる。
 その一方で主人公マックが貧しい生い立ちからアメリカン・ドリームの立身出世を遂げ、幸福な家庭を築きながら、トンネル事業にかまけて妻子を顧みなくなるメロドラマ風展開も女性読者を惹きつけただろうし、事故の混乱で暴徒化した群衆に襲われ命を落とす妻と娘の悲劇も涙なしには読めない。だからこそこの人生最大の危機を不屈の意志で乗り越えるマックの超人めいた行動力に読み手はつい頁を繰っていく。トンネルをめぐる物語は、綿密な計画性と投機的な打算に支えられた金融資本主義経済の教科書のようでもあり、大量動員される労働者の管理に腐心し、彼らの反抗に厳しく対応する経営者としてのマックを前景におけば、もろもろの技術的・経営的困難に立ち向かうエンジニア系企業家の教養小説と読めなくもない。
 本復刻版には、SF漫画の草分け的存在だった手塚治虫が「忘れられない本」と題し『朝日新聞』の書評欄(1977年5月16日付)に載せた、『トンネル』再評価のきっかけになった短文が収められている。少年期の手塚の「心をもっともゆさぶった小説」の魅力は、「荒唐無稽で子どもじみた」アイデアを「綿密な構成とたたみかけるような話術で、とにかく読ませてしまう」点にあった。
 手塚とは別に早くから『トンネル』に注目していたのが筒井康隆である。筒井は、田子倉ダムの建設とタイの道路工事で活躍する土木技師を描いた曾野綾子の長篇『無名碑(上・下)』(1969年)の書評で、ケラーマンの『トンネル』にも言及し、「壮大な大工事小説」と呼んでいた(筒井康隆「曽野綾子讃」、1970年)。後に筒井は自身の書評をまとめた『漂流――本から本へ』(2011年/『読者の極意と掟』講談社文庫、2018年)のなかで再び『トンネル』をとりあげ、「土木SF」と命名している(本書所収)。
 SFの分野で大きな世界を切り開いたや手塚や筒井の『トンネル』評から窺えるように、『トンネル』の魅力、今読んでもけっして損なわれぬ小説としての魅力は、SF的な工事計画のアイデアにあるのではない。主人公のアメリカ人技術者マック・アランを見守る二人の女性、妻のモードと後妻となる大富豪の娘エセールの性格の対照的な描き分け方、大都会ニューヨークをまるで映画のカメラのように躍動的に写しとる文体、無名の労働者たちをマスとして描写する力強さ、どれをとっても読者を惹きこむ筆の勢いがある。
 登場人物の配置や構成が絶妙であれば、人間が類型的だという批判はあたらない。ケラーマンの巧みさは、むしろ類型を徹底して描きこんだ点にあろう。音楽をこよなく愛するマックの妻モードの生きる世界は、ケラーマンが得意とした感傷的・情緒的な言葉で縁取られている。彼女の幼馴染の建築家ホッビーは「すらりとした華奢な女のような」金髪の伊達男で、「社交界での人気者の一人」だが、モードとのささやかなロマンスの主役にもなれば、マックの懐刀の技師長として八面六臂の活躍もする。その明朗な存在がトンネルの大惨事によって「白髪頭の老人」へとやつれ果て、廃人と化す悲劇もその暗転のコントラストが読む者の心を揺さぶる。
 マックの計画に融資する大富豪ロイドは「ブルドッグに髣髴とした悲喜劇的」な顔で、「生きた骸骨のような恐怖」を発散し、その部下でトンネル・シンジケートの財政部長に就任するS・ウルフは、金と権力を求め続ける上昇志向の強いハンガリー出身のユダヤ人だが、女好きで横領の罪を犯す設定は、絵に描いたようなユダヤ人に対する偏見の見本である。もっとも世界中からプロジェクトに人材を募るので、さまざまな国民・人種の特性が世界を旅したケラーマン流の視点で類型化されており、第一次世界大戦前の帝国主義が行くところまで行った時代ならではの国民観や人種偏見が無頓着に、正直すぎるくらい率直に表明されている。ちなみに日本人は気軽に「ジャップ」呼ばわりされる。現在の「政治的正義」の観点からは問題があるかもしれないが、人物造型の巧みさと人物配置の妙に免じてどうか割り引いて読んでもらいたい。
 一方で主人公の技術者マック・アランの人物像は「成長」とは無縁の、物語のなかの不動点となっている。「ちょうど拳闘家のようながっしりした骨組」に栗色の髪に暗碧色の眼の「たった今航海から戻って来たばかりの船のオフィサー」として登場するこの青年はトンネル完成までの26年間、大事故や妻子の死に遭遇してさえ意志が揺るがない。先ほど『トンネル』は技術者が企業家に成長する教養小説のようにも読めると書いたが、肝心の主人公が人間的に成長するわけではない。冷徹なまでに目的遂行に邁進する鋼鉄の性格のまま初老を迎える。ドイツの研究者のなかには、このように描かれた技術者像が後のナチ親衛隊のエリートに共通する性格特性を先取りしていたと論じる人もいるほどだ。
 『トンネル』の登場人物のキャラクターの際立たせ方、徹底した類型化は、ある意味で漫画的でもある。少年期の手塚治虫が『トンネル』から深く影響を受けたとすれば、それは案外人物描写にあったのかもしれない。


★  ★  ★

※造本について
いかがでしょうか。編集担当から、もうひとつ装幀について付言しておきます。
今回ははじめから筒函(スリーブケース)で装幀することを考えていました。なぜそのようなことを思ったか。
「これは、トンネルだけに抜けている函なんでしょ」

蛇足でした……。

装画は漫画家の速水螺旋人氏にお願いしました。
速水さんはミリタリーもののディテールを巧みに表現できる希有な才能の方です。さまざまに登場する人物と、近未来的列車を速水さんがどう描いてくれるだろうか、まったく新しい『トンネル』が見られるのではという期待を込めて依頼しました。
――想像以上の、現代版『トンネル』にふさわしい素晴らしい作品があがってきました!

装幀はコバヤシタケシさんです。
おっ! メールで届いた装幀案に腰が浮き上がりました。これはキャッチーな本になるぞ。函はもちろん、本の表紙の折り返し部分まで欧文でデザインされていて素敵です。今回本文の冒頭8頁はグレーの用紙の別丁であつらえているのですが、その用紙選択、扉や目次、地図に、わくわく感を演出するデザインしていただきました。さらに筒函の中は仮フランス装という、愛書家にもよろこんでいいただける造本を目指しました。
是非とも実物を手にとってご覧ください!

※追記の追記
編集作業が鋭意進行中の4月、ふと書店の雑誌の平積みをみると、手塚治虫『地底国の怪人』の文字が! なんと「サライ」5月号が、特集「手塚治虫と漫画の青春」でした。付録には『地底国の怪人』の復刻が……。
なんという偶然、わたしはすでに角川文庫版を入手して、手塚の換骨奪胎のトンネルワールドを楽しんでいましたが、まさか復刻のかたちで読めるとは思いませんでした。
そして特集ページには手塚治虫の蔵書の写真が載っており、『ファウスト』の隣に、なんと『トンネル』が……。感じ入りました。

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『トンネル』

ベルンハルト・ケラーマン著/秦豊吉訳

手塚治虫「忘れられない本」収録

筒井康隆「ケッラアマン『トンネル』」収録

識名章喜「幻の訳書の復刻によせて――ケラーマンの『トンネルについて』」収録

装画:速水螺旋人

装幀:コバヤシタケシ

四六変形判・総520 頁 ISBN978-4-336-06666-4

定価:本体3,500円+税


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