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【元気が出る悲観主義とは?】『ショーペンハウアーとともに』(ミシェル・ウエルベック)電子書籍版刊行記念「訳者あとがき」全文公開!

『ショーペンハウアーとともに』(ミシェル・ウエルベック著/アガト・ノヴァック゠ルシュヴァリエ序文/澤田直訳)電子書籍版の発売を記念して、訳者の澤田直さんによる「訳者あとがき」を全文公開いたします。

現代フランスを代表する作家ウエルベックが、19世紀ドイツを代表する哲学者ショーペンハウアーの「元気が出る悲観主義」の精髄をみずから詳解した一冊。
20代半ばのウエルベックの人生を変えた《世界が変わる哲学》とは何か?
「元気が出る悲観主義」とはどのようなものか?

澤田さんによる訳者あとがきは、難解な哲学用語をふくむ本書を繙くための足掛かりとして、うってつけの内容となっております。
ウエルベック×ショーペンハウアーという、ペシミズムのマリアージュ。
ぜひ、以下の試し読みをどうぞ。

☆ ☆ ☆

訳者あとがき

 ご覧のように、本書は第6章で、結論もなく唐突に終わっている。ウエルベックがショーペンハウアーに投げかけるコメントをもっと読んでみたい。そう思うのは訳者ひとりではなかろう。もしこの翻訳と注釈の作業が続けられていたら、その後いったいどのような展開が見られたのだろうか。思わず、そんな書かれなかった部分を想像したくなる。
 二十一世紀フランスを代表する作家と、十九世紀ドイツの哲学者。この組み合わせは意外に思われるかもしれないが、ディープなウエルベック読者であれば、作家のショーペンハウアーへの共感は驚きでないばかりか、「なるほどこんな思いが彼の小説の背景にはあったのか」と膝を叩く人もいるのではなかろうか。じっさい、これまでも小説のなかにパスカルやプルーストと並んで『意志と表象としての世界』の哲学者はときどき顔を出していたからだ。
 ウエルベックとショーペンハウアーの出会いの経緯については作家本人が本書の序論で詳しく説明しているし、全体的な文脈についてもアガト・ノヴァック゠ルシュヴァリエが前書きで見事に解説しているので、ここではもう少し自由に、ウエルベックとショーペンハウアーに関する補足情報を記すことにしたい。
 というのも、本書には、哲学についての予備知識がないと読みにくい部分もあるからだ。それも困ったことに、一番とっつきにくいのが第1章ときている。後半になればなるほどすらすら読めるのだが、まずは第一関門をクリアする必要がある。

 『意志と表象としての世界』の冒頭からの引用は、ドイツ観念論に馴染んでいる方は別として、哲学の専門用語が多数出てきて、取りつく島もないと感じる読者も多いのではないか。それも無理からぬ話であって、『意志と表象としての世界』は、若きショーペンハウアーがカントやヘーゲル哲学を乗り越えようという野心をもって一八一九年に世に問うた純然たる哲学書、つまり今からちょうど二百年前に刊行された専門書なのだ。そのままでは歯が立たないのも当然と言える。しかし、この第1章の難関を乗り越えれば、あとはいつものウエルベック節に導かれ、ショーペンハウアー哲学を発見することができるはずだ。そのお手伝いをするために、少し乱暴なまとめ方になるが解説を試みてみよう。カントによって確立されたドイツ観念論によれば、私たちが認識しているのは、あくまでも仮象としての現象で、本当の世界ではない。「真実在」とも言われる本当の世界、カントの用語で言えば、「物自体」には、認識によってはたどりつけない。この世界観をショーペンハウアーも大枠では受け継いでいる。この点を踏まえたうえで、本書を理解するために表象、意志、観照という三つのキーワードの意味をまずは確認しておこう。

・表象(ドイツ語Vorstellungフランス語représentation)
 現代思想に関心がある人はともかく、一般には馴染みの薄い言葉だろう。現在では、あるものの代理としてそれを表すイメージのこと(例えば、りんごを描いた絵や、りんごの写真は、りんごそのものではなく、りんごの表象)を指すことが多い。ただし、カントやショーペンハウアーの場合、もう少し複雑だ。まず物は、知覚(意識的表象)、感覚(主観的表象)、認識(客観的表象)の形で捉えられる。どの場合でも、私の意識に浮かび上がる物を「表象」という。ショーペンハウアーが「世界は私の表象である」と言ったのは、あくまでも私にとって現れるかぎりでの対象にすぎない、ということである。カントとの大きな違いは、ショーペンハウアーが、「考える」ことよりも、「見る」ことを重視する点にある。後述するように、利害から離れて「眺める」ことこそ、天才にとって大切だとされる。さらには、身体を徹底的に軽視どころか敵視してきた従来の哲学者と異なり、身体の重要性を強調したショーペンハウアーは、身体がなければひとは「見る」ことができないと考えた。この点は観念論の枠組みを大きくはみ出ていると言える。ウエルベックの第二の引用(本書三七頁)が示すように、身体こそ世界のなかでただひとつ現実的な個体であり、主観にとって直接的に捉えることができる客体であるという考えはきわめて現代的だし、この身体と意志が同一視される点に大きな特徴がある。

・意志(ドイツ語Willeフランス語volonté)
 通常の意味では「意志」は単なる衝動や本能とは異なり、動機にもとづいた自覚的なものと考えられる。しかし、ショーペンハウアーの場合は違う。人間や動物だけでなく、あらゆるものが持つとされる「意志」はむしろ衝動のようなものだ。動機もなければ、目的もない、ほとんどどころか、衝動そのものである。「認識をもたず、盲目的で、抑制不可能な単なる衝動にすぎない」(第五十四節)とされるのだ。「意志」と言うと、精神の問題のように思われるかもしれないが、ショーペンハウアーにおいて、意志とは身体の本質だとされ、「生への意志」とは身体が存続しようとすることに他ならない。言い換えれば、それはただひたすら生きよう、生き延びようとする本能の世界であり、目標に向かって邁進するような意識的な意欲とはまったく異なるものだ。つまり、世界には究極的な意味はない、と言ってもよい。これはニーチェに先駆けたニヒリズムの態度だと言える。「意志と表象としての世界」とは、客観的には人間の身体も含めた自然が表象として現れ、主観的には人間の意識的意志も含めて、一切のものに「生への目的なき意志」を認めるものだ。その一方で、ショーペンハウアーもカントと同様に、人間の認識は現象界に限られ、物自体としての「意志」の世界は認識できないと考える。そうはいっても、真に存在するイデアに到達できる人もいる。それが、天才と呼ばれる人たちで、彼らの事物を眺める態度が「観照」と呼ばれる。

・観照(ドイツ語Kontemplationフランス語contemplation)
 これも一般には馴染みの薄い言葉かもしれないが、端的に言えば、利害や関心を離れて虚心坦懐に事物を「眺める」こと。生涯にわたってフルート演奏を楽しみ、若き日のヨーロッパ旅行で各地の美術品や名画に親しんだだけでなく、ゲーテからも可愛がられたショーペンハウアーが、美学の枠組みを超えた位置を芸術に与えているのは確かだ。本書第2章でウエルベックが取り上げるのが、まさにその芸術論である。ショーペンハウアーの場合、観照はとりわけ、芸術家の態度と結びつくのだが、それは、目先の自分の利益はおろか、人類や世界のためといった高邁な精神とすら無縁な仕方で、ただぼーっと眺めることなのだ、とウエルベックは敷衍する。一切が無目的な「生への意志」からなる世界がショーペンハウアーの世界観だと先に述べたが、しかし、そのような荒涼とした世界に一種の救済をもたらすのが芸術であり、天才だとされる。というのもそこでは人間が意志をもたない純粋な認識主観にまで高められ、そのことによって物も個別を超えてイデアとして現れるからだ。

 以上、鍵になる言葉をかなり大胆に(専門家からはお叱りを受けそうなほど)嚙み砕いて説明してみたが、あらためて『意志と表象としての世界』という書物の構成を見てみよう。この大著は四巻からなっており、最初の二巻が理論編(一が表象、二が意志)、第三が芸術論、第四が実践哲学あるいは道徳論という構成になっている。そして一巻から三巻までのキーワードが先に見た三つということになる。本書でウエルベックが翻訳引用したのは第三巻までであり、ショーペンハウアーが最も重要だと考えた道徳を扱う第四巻からの引用はない。ただし、それは、途中放棄したためにそこまでたどり着けなかったからというよりは、その重要な部分が『幸福について』で余すところなく扱われているためだ。ウエルベックも言うように、人生の根本問題が、これほど自由闊達に論じられる哲学書もまれである。
 じっさい、皮肉なことに、主著『意志と表象としての世界』よりは『余録と補遺』こそがショーペンハウアーの名声を高めた本だった。ヨーロッパが一八四八年の革命運動から世紀末に向かう、憂鬱と退廃の時代である。それはまた、本書でも挙げられているボードレール(ウエルベックはときに「スーパーマーケットのボードレール」とも評される)の活躍した時期でもあった。このような文化潮流のなかでショーペンハウアーは、非合理的主意主義、芸術による救済の哲学、性愛の哲学、退廃的ロマン主義、ペシミズム、自殺擁護の代表とみなされ、一世を風靡した。その一方で、その文才ゆえにかえって、アカデミックな講壇哲学からは、一段低く見られていたことも否めない。じっさい、『意志と表象としての世界』は当初から学会では注目されず、その後も哲学史のなかでは傍流と見なされていると言ってもよい。日本でもショーペンハウアーは昔からたいへん人気のあった哲学者だったが、若者や素人向けの哲学者といって軽んじられている観は否めない。じっさい、ウエルベック自身も最初に出会って虜になったという『幸福について』(正確には『余録と補遺』に所収された『処世術箴言』)は、すらすら読めてほんとうに面白い、ウエルベックファンにはお薦めの本だ。一方、『意志と表象としての世界』はすでに述べたように、がちがちの哲学書で、読むのに少し骨が折れる(とはいえ、豊富な実例と不思議なエピソードが満載で、これも一度気に入ると病みつきになる)。
 ところで、哲学者でもないウエルベックがなぜそんな面倒な哲学の翻訳に取り組み、またそれを成し遂げることができたのだろうか、という疑問を持つ読者もいるかもしれない。だが、ウエルベックにとってだけでなく、一般のフランスの読者にとっても本書はそれほどハードルが高くないと思われる。その理由のひとつは、フランスの高校では、最終学年が「哲学学級」と呼ばれることに端的に示されているように、哲学が伝統的に必修科目であり、この手の文章には免疫があること。もうひとつは、フランス語の場合、日常の言葉がそのまま哲学用語となっていることもあり、先に見た「表象」「意志」「観照」という言葉は日常会話でも出てくる言葉であることによる。

 そもそも、ウエルベックを小説家という枠で捉えるだけでは、彼の全貌を捉えることはできないのではないか、と本書を訳しながらあらためて思った。日本ではもっぱら小説家として知られるウエルベックは、詩人、エッセイスト、さらにはミュージシャン、映像作家という顔も持つ。だが、彼のことを早くから評価していたジャーナリストにして作家、そして盟友でもあったドミニック・ノゲーズは、評論『ウエルベックの実態』においてエッセイストとしての側面を最も重要だと考え、エッセイの文体こそが彼の真の姿だと指摘している。「その証拠に〔*Dominique Noguez, Houellebecq, en fait, Fayard, 2003, p.150.〕、彼のエッセイの典型的な特徴は彼の詩の中にも(例えば、詩集『闘争の感覚』の中の詩「自由主義に対する城壁」)、小説の中にも(特に『素粒子』)見られる。同じく、彼の小説のタイトルそのものが、機知に富んだ感傷的な言葉や社会的な出世物語よりは、マルクス主義的社会学や素粒子物理学の著作を告げている」。ノゲーズはとりわけ、ノヴァックの前書きにも何度か引かれている「無秩序への接近」〔*Michel Houellebecq, Interventions2, Flammarion, 2009.〕を高く評価しているが、本書でも、そのエッセイストとしての才能は見事に発揮されている。

 ウエルベックはその一見ノンシャランな語り口とは裏腹にきわめて緻密な構成をする作家で、その特徴は本書の端々にも見て取れる。たとえば、ショーペンハウアーと比較して、トーマス・マン、フロイト、ヴィトゲンシュタインにも言及しているが、これはけっして偶然ではない。彼らもまたショーペンハウアーの熱烈なファンであり、多大な影響を受けた人たちだった。ニーチェ、ワーグナーもそうである。ここからもわかることは、ウエルベックがショーペンハウアーに心底入れ込んでおり、この哲学者を熟知しているということだ。小説の中でも何度もその名前が引かれる。二〇〇四年に、スペインのムルシアで、ウエルベックが「ショーペンハウアー賞」!(寡聞にしてそのような賞の存在を知らなかった)を受賞しているのも、これらの功績によるのだろう。

 たとえば『ある島の可能性』には、本書五七頁でも触れられる荒涼とした風景を観賞することを思わせる文脈で、ショーペンハウアーの引用がある。

 地平はまったいらで〔*ミシェル・ウエルベック『ある島の可能性』(中村佳子訳)角川書店、二〇〇七年、九六頁。〕、漆黒の断崖に囲まれた白い砂浜だ。おそらく本当に芸術家気質を備えた人間であれば、その孤独感、その美しさを自分に役立てることができるのだろう。僕の場合は、その果てのない風景を前に、防水布の上に乗った蚤の気分だった。その美しさ、その地質学的な見事さは、結局、僕にはどうでもいいものだった。むしろそうしたものに漠然とした恐れさえ感じる。「世界はパノラマではない」ショーペンハウアーはドライに言ってのける。

 「世界はパノラマではない〔*『意志と表象としての世界』続編第四十六節。ちなみに原文は断定ではなく、「世界はパノラマだろうか。なるほど、見るには美しいかもしれない。だが、それであることはまた別のことである」と続く。〕」はウエルベックのお気に入りの言葉のようで、インタビューでも繰り返し用いている。そのすぐ先にもさらに一度。

 ゲーテはショーペンハウアーに会い、クライストにも会っているが、本当の意味でこのふたりを理解することはなかった。プロイセンのペシミスト。どちらのことも、ゲーテはそう思っていた。ゲーテの一連のイタリアの詩を読むと、いつも僕は吐きそうになる。(同書九七頁)

 また、『プラットフォーム』第二章第四節の終わりにも顔を出していた。

ショーペンハウアーが〔*ミシェル・ウエルベック『プラットフォーム』(中村佳子訳)河出文庫、二〇一五年、二〇五頁。〕どこかでこんなことを書いている。「人が自分の人生で憶えていることは、過去に読んだ小説よりほんの少し多い」まさにそういうことだ。ほんの少し多いだけなのだ。

 そして今年刊行の『セロトニン』にも、と引用を続ければきりがない。
 しかしながら、ショーペンハウアーへのこの熱烈な傾倒は、ウエルベックの専売特許というわけではない。フランスに限っても、フローベール、モーパッサン、オクターヴ・ミルボー、ユイスマンスから、アンドレ・ジッド、プルースト、ベケットまで錚々たる作家たちがショーペンハウアーに心酔していただけでなく、哲学者のベルクソンやシオラン、サルトルまで、また、ドストエフスキー、カフカなど、この悲観主義の哲学者に魅了された者たちのリストは長い。その人気の理由は、ショーペンハウアーが机上の理論を振り回す講壇哲学者ではなく、人間精神の機微に通じた人生論の達人であったことにあるのだろう。だが、それに加えて、性についてもあけすけに語るたぐい稀な哲学者でもあったからではないか(フロイトが惹かれたのも宜なるかな)。『意志と表象としての世界』第四巻第五十四節は生を「生殖」の観点から論じているが、その論点は、ウエルベックが『ランサローテ島』や『素粒子』で描いた世界、欲情と生殖が分離され、遺伝子操作によるクローンが次世代をつくっていく世界の遠い出発点となっているようにも見える。
 ところで、もしウエルベックがこの本を途中で放棄することがなかったら、ほかにどんな引用がされたのかを想像するのも楽しい。ショーペンハウアーにはまだまだ人口に膾炙した多くの名言〔*『読書について』〕が存在するからだ。

「学者とは書物を読破した人、思想家とは世界という書物を直接読破した人のことである」
「読書は思索の代用品だ。読書は自らの思想の湧出が途絶えたときにのみ試みられるべきものである」
「だから学者には往々にして無学の人でも持っている常識が欠けている」(耳が痛い)
「男の性欲がなくなればすべての女から美は消え去るであろう」
などなど。ここでは引用するのを躊躇ためらわれる、ほとんど女性蔑視とも言えるショーペンハウアーの数々の名言(迷言)にミソジニストと見なされることも多いウエルベックがコメントをつけたとしたら、それはどのようなものになったろうか。

 最後に、本書の序文を書いているアガト・ノヴァック゠ルシュヴァリエについても簡単に触れておこう。現在パリ゠ナンテール大学の准教授で、専門はバルザックとスタンダールを中心とした十九世紀の小説や演劇。さらには、それらの作家の二十世紀、二十一世紀文学への影響の分析にも熱心に携わっている。そのような関心から始まったのだろうか、彼女は二〇一〇年ごろからウエルベックに関心を示し、インタビューを精力的に始めた。そして『エルヌ』誌上で堂々たる「ウエルベック特集号」をひとりで編み上げただけでなく、ウエルベック本人と関係者へのインタビューも数多く収録している。さらに、昨年はウエルベック論『ミシェル・ウエルベック慰めの術』も出版し、アカデミックな世界とウエルベックをつなぐ重要な役割を担う存在と言える。

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電子版『ショーペンハウアーとともに』は、
6/27(日)よりAmazon Kindleにて配信開始です。

また、このほど弊社では電子書籍の取扱書店を拡大、以下の電子書店でも近日中に順次配信予定です。こちらも併せて御利用下さい。

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『ショーペンハウアーとともに』
ミシェル・ウエルベック
アガト・ノヴァック=ルシュヴァリエ 序文
澤田直 訳

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《世界が変わる哲学》がここにある!
現代フランスを代表する作家ウエルベックが、19世紀ドイツを代表する哲学者ショーペンハウアーの「元気が出る悲観主義」の精髄をみずから詳解。その思想の最奥に迫る! 

本書『ショーペンハウアーとともに』は単なる注釈書ではない。一つの出会いの物語でもある。二十五から二十七歳のころ――つまり、一九八〇年代半ば――ミシェル・ウエルベックは、パリの市立図書館でほとんど偶然に『幸福について』を借りた。「当時、私はすでにボードレール、ドストエフスキー、ロートレアモン、ヴェルレーヌ、ほとんどすべてのロマン主義作家を読み終わっていたし、多くのSFも知っていた。聖書、パスカルの『パンセ』、クリフォード・D・シマックの『都市』、トーマス・マンの『魔の山』などは、もっと前に読んでいた。私は詩作に励んでもいた。すでに一度目の読書ではなく、再読の時期にいる気がしていた。少なくとも、文学発見の第一サイクルは終えたつもりでいたのだ。ところが、一瞬にしてすべてが崩れ去った」。衝撃は決定的だった。若者は、熱に浮かされたようにパリ中を駆け巡り、『意志と表象としての世界』を見つけ出す。それは、彼にとって「世界で最も重要な書物」となった。そして、この新たな読書はさらにすべてを「変えた」。

私の知る限りでは、いかなる哲学者もアルトゥール・ショーペンハウアーほどすぐさま心地よく元気づけてくれる読書を提供してくれる者はいない。「書く技術」の問題ではないし、この手のジャンルに見られる饒舌でもない。それは公衆に向って発言しようというほどの勇気をもつ者ならばあらかじめ同意書にサインすべき前提条件のようなものだ。『反時代的考察』第三篇は、ショーペンハウアーを否定する少し前に書かれたものだが、そこでニーチェは、この哲学者の深い誠実さ、廉直さ、正直さを賞賛している。ショーペンハウアーの声の調子、その一種の粗野な善良さについて名調子で語り、それを読めば読者は名文家や文体に凝る連中に対して嫌悪感を覚えるだろうと述べる。これこそ、広い意味での本書の目的である。
(本文より)

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★Arthur Schopenhauer
アルトゥール・ショーペンハウアー

(1788-1860)
19世紀を代表するドイツの哲学者。
ドイツ観念論に東洋哲学を取り入れ、実存主義・ニヒリズムの先駆者としても知られる。
主著は『意志と表象としての世界』(1819年)。彼の唯一で独自な思想は、若き日のニーチェを熱狂させたほか、ヴィトゲンシュタイン、フロイト、アインシュタイン、トルストイ、プルースト、ボルヘス、ワーグナーなど、後世の哲学者・作家・芸術家などに多大なる影響を与えた。
今日においては『余録と補遺』(1851年)からの抜粋である『幸福について』『読書について』などのエッセイが広く一般に親しまれている。

※2021年6月25日現在、紙版も在庫がございます。

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