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勉強は財産


幼稚園の頃、
近所の友達宅によく遊びに行ったものだった。

ヨッちゃんという名の、年が近い男の子。

両親は隣町に住んでいて
ヨッちゃんは祖父母の家から幼稚園に通っていた。

だから小さい頃は
ヨッちゃんの祖父母とも面識があり
近所の友達ということで
よく面倒を見てもらっていた。

時は経ち、私は中学3年生になった。
担任が白髪混じりの中年教諭に変わった。
彼はヨッちゃんの叔父だということを知っていた。
つまりヨッちゃんの祖母は、その担任の母親なのだ。

20年以上経った今でも
その担任の先生の言葉が記憶に残っている。
とても熱い先生だった。
私の記憶力が良いのか、
それとも、その先生の言い回しがキャッチーだったのか、
名言を再現すらできてしまう。

その名言の中に、
「勉強したことは一生の財産になる」というものがあった。

「だから、今、一生懸命勉強しろ」という
よくあるロジックに繋がるのだが、
何故かその言葉がとても印象に残った。

その言葉は彼の母親から貰ったものらしい。
そう、ヨッちゃんの祖母の言葉が
不思議な経路を介して十年後くらいに私へ届いたのだ。


中学の頃、勉強が大事だってことを頭では理解していたが、
それ以上でもそれ以下でもなかった。

そして、
高校、浪人、大学と進むに連れて
周りに勉強が出来る人が増えていって
田舎の神童は、平凡な一人のモブキャラに変化した。

その時期も勉強というものの重要性は
本質的には理解できておらず、
漫然と漠然と受動的に勉強をしてきた10代、20代の頃。
勉強したり、しなかったりの日々が続いた。

運が良かったのは
大学時代に塾講師のアルバイトをしていて、
そこで「勉強とは何か」を考える機会に恵まれたことだ。
さらには大学受験に割いた努力が
直接、塾の生徒に還元されることになり
勉強して良かったと初めて実感できた時期だった。

社会人になってからも
知識の取得、
知識の利用、
理解のプロセス、
問題のピックアップ、
問題解決、
評価、
という、あらゆる日常のシーンで
いわゆる「勉強」を通じて得たことに
生かされていることを痛感するようになった。

嫌なことに耐える力、
知る喜び、そして、もっと知りたいという意欲、
不条理や理不尽といった不協和の心理状態を我慢する能力、
これらはたぶん勉強を避けていたとしたら
経験・習得できなかったことだと思う。

高校以降は平々凡々な人間として
惰性ではあったけれども勉強を続けてきて
それが今、生業を支えるスキルとして生きている。

いつかヨッちゃんの祖母の死を知った。
幼少期は彼女の優しい笑顔の記憶しかなく、
息子である担任の先生の口からは厳しい母親像を伝え聞いた。

彼女の言葉の意味を今もたまに考えることがある。
良い言葉を貰ったと思っている。

資産とは自分に利益をもたらす財産のことを指す。
もちろん生活の銭を稼ぐ直接の原動力にもなっているが、
勉強したことで得られた恩恵が何だったのかを
節目、節目で考え、認識して、感謝するようにしている。


「勉強」の由来・語源は一説には
「勉めて、強いる」と書くように
「本来、気の進まないことを無理にする」という意もある。

「勉強」が主体的に知的好奇心に駆られて為されるものであったにせよ、
あるいは強制力に対して受動的に為されるものであってにせよ、
自己強化やトレーニングに繋がる要素が大いにある。

個人的には「受動的」「強制的」というニュアンスを伴う「勉強」
という語彙は、あまり好ましいとは思っていないが、
ヨッちゃんのおばあちゃんの言葉は肯定的に捉えたい。