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薄くて均質的な才能


基本的に若い人ほど才能が豊かだ。
物心ついたころから身の回りに創作活動に必要なツールが揃っている世代にはぼくらはいづれ手も足も出なくなる時が来る。


厳密に言うと「都会生まれ都会の育ち」の若い人だ。

地方の人間は芸術や文化の現場というものが手の届く場所にあまり存在しない。
音楽をやりたいのであれば例えばライブハウスだったり音楽関係者が出入りする”現場”が近くにあるので10代のうちからそういう”現場”に出入りしている子供たちはぼくたち過疎地方出身者とは比べ物にならないくらい早い段階で自分の進路に関して具体的な知識や技術を持っていたりする。もちろんそれはその他の文化、芸術、スポーツでも同じことが言える。
地方では学校生活に関しても部活動に強制的に入部しなくてはならないなど前時代的な価値観がいまだに支配しているので文化的な多様性というものがまだまだ乏しい。
地方在住の10代はヤンキーになるか勉強するかしかやることがない、という風刺のきいた言葉があるが実際地方出身のぼくとしてはその説は正しい。



ただ今の若い人たちは物心ついたときにはすでにインターネットが黎明期を迎えておりネットを介して情報を仕入れたり活動したりすることができるので独学でイラストなどを勉強してた若い「神絵師」なんて呼ばれる人もいる。
少しずつだが地方と都市部の差は埋まっているようにも思えるがまだまだ地の利を逆転できるほどの状況には程遠いというのが実感だ。

今のところ都会に生まれ育つこと自体がすでに才能なのだ。



重ねて言うが基本的に若い人ほど優秀なのは間違いなくて、物心ついたころから身の回りに創作活動に必要なツールが揃っている世代にはぼくらはいづれ手も足も出なくなる時が来る。
ただ今のところ全体的に「薄く」「均質的」な才能だ。
つまるところ二次創作と大喜利の回答のような作品性に収束していっている印象を受ける。
情報の発信と受け取りのスピードが速くなればなるほど表現は「J-POP」化していくからだ。

もともと芸術自体が「みんな知っている路上の石ころにしっくりくる愛称をつける」行為に似たいわば大喜利に近い要素を含んでいるので薄い味の才能でも凡そ問題ない。
だが、その路上の石ころを自分で見つけてきたり、時には自分でその石自体を生み出したりすることを求められる時、薄い味の才能の壁を超えないといけない時がいずれ来る。

その時彼らは薄い味の才能を超えていけるかどうか、ぼくらの世代はその邪魔をしないでいられるかどうか。
試金石である。


生きることで精いっぱいです。