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宗教化するワクチン論争(2)科学と宗教を分けるもの

 近代国家が,民主主義と科学を2大柱とする構造でできあがっていることを前回お話ししました。これは前近代の国家が血筋と宗教でできあがっていることと構図は同じですが,その内実も同じなのでしょうか?直観的に考えれば,宗教と科学は水と油のように異なるもののように見えます。宗教と聞けば,すぐに非科学的と思う人も多いのではないでしょうか。

 確かに,科学は宗教とは表面的には根本的に異なっています。宗教は,何か神秘的で得体のしれないような雰囲気を常に醸し出しています。教会に行っても寺院に行っても,絶対に入れない空間があって,そこから天啓を受ける人だけが真理を知る者としてふるまうのですが,それが正しいかどうかを,一般人が確かめることはできませんし,そのような行為は厳しく禁じられているか、果てしない修行の末に体得できるとされています。

 一方,科学は,そのプロセスは万人に開かれていて,誰でもその正しさが検証できるものでなければなりません。しかし,自然現象にしても,社会現象にしても,宇宙や世界は非常に複雑で,人間の限られた能力ではそのほんの一部しか理解することはできません。ですから,科学的に解明されないことは,無限に残されています。したがって,科学とは,宗教のようにすべての真偽を判定するような万能の神ではなく,すべての人に対して開かれたプロセスとして存在すべきものです。このように考えれば,宗教と科学は真逆になります。

 しかし,近年の科学は,高度化して複雑になりすぎて,一般人では簡単にアクセスできず,理解するためには何年もかかるような知識と技術の体系になっています。そうなると、当然,科学に精通した人間が,科学と大衆の間に入ってくることになります。これが科学者であり,専門家と呼ばれる種類の人間です。これは,膨大な経典を読み,日々修行を積んだ宗教家(神父,牧師,僧侶など)が神と人間の間に入るのと同じ構図です。

 あらゆる宗教において,神と神と人間の間に入る「人間」は区別されています。しかし,神は実際に存在しませんから,この「人間」が神のように振る舞って宗教が維持されています。それでは専門家はどうでしょうか。専門家が,一般大衆に対して科学の開かれたプロセスを示したうえで,限定された真理,つまり現時点で分かっていることと,分かっていないことを誠実に伝えるなら,科学は宗教とは違うメッセージを伝えることになります。実際,純粋な科学者の集まりがもしあって、そこに如何なる圧力も生じないとすれば、そのような場合も想定できます。

 しかし,科学が国家の手段になるとき,国家は何かを判断しなければなりません。判断する以上,真偽をはっきりさせる必要があります。そこに科学を使うならば,その科学の正しさに疑念をさしはさまれては,そこから権力が瓦解してしまう恐れが出てきます。したがって,政策の根拠として採用された科学は、常に真理であると主張するようになります。そうなると科学と宗教の違いは突然曖昧になってしまいます。

 科学も宗教も自分が絶対の真理であると考えれば相手が間違っているというだけではすみません。相手の間違いを指摘しようとすると,同時に自分が間違う可能性も公開することになってしまうので,「間違い」ではなく,違う言葉で相手を非難し排除します。それが「デマ」や「陰謀論」のような言葉です。つまり、そこには真偽を問う議論を省略して頭から相手を否定する強い態度が示されます。そうなれば、もはや科学ではありません。もし,科学者や専門家と称される人間が,異なる見解を「デマ」と呼び,その背後に「陰謀」があると主張するようになると,その人たちは科学者でも専門家でもなく,エセ宗教家に過ぎません。このような人間を社会に跋扈させてはいけません。

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