死んだカブトムシが残したもの
思い入れ
何かに思い入れが強ければ強いほど私たちの人生に活気を与えてくれます。
家族、友人、恋人。
その他ペットや植物などでも構いません。
私たちの「思い」敢えて言うなら「想い」が私たち以外に向いている時に、私たちも自身の存在意義というか、役に立っているというか、貢献しているというか、そんな意識にさせてくれます。
思い返してみる
赤ん坊の頃、私たちは何も分かっていません。
自分がどのような形をしているのか、自分が何なのかも分かっていません。
何かあるから、口に入れてみたり、それが自分の手だったと気付くのはちょっと成長してからです。
そして、手と分かったら物を動かすことを学んでいきます。
手があって物を動かすことが出来るんだ、と私たちが気付いたときは歓喜に溢れたことでしょう。
今となっては覚えてすらないでしょうが。
というように、私たちは知覚する、あるいはされることで自分の存在をはっきりと認識するようになっていきます。
想いの対象を他者へ
さて、そんな私たちが、私たち以外の「何か」に興味をもち、世話をすると私たちの想いの対象が自分ではなくその「何か」に入っていきます。
それは徐々にかもしれませんし、最初からあるものかもしれません。
そして、途中で忘れてしまうこともあります。
想いが行動に隠れていく感覚。
例えば、毎日家族のご飯を作っていると、作ることが日課になり、最初は喜んで食べてもらえることに私たち自身も喜びを感じていましたが、ご飯を食べる側、作る側、双方行動に焦点があたり、「食べる」「作る」ことが当たり前になっていき、次第に文句も出てきます。
美味しくないだったり、作りたくないしめんどくさい、など。
しかし、その行動が無くなってはじめて、ちょっとした思いに気付くこともあるのです。
そういえば、最初ご飯を作っていた時は、楽しかったな、とか、作ってくれたご飯すごくおいしかったんだ、もう食べられないんだ。
だって、作ってくれる人はもういないから、、、。
などその当たり前の行動が無くなってはじめて、想いに気付くことができます。
しかし、最初からこの想いを込めずに、何もしてなければ、失った時もそこまで悲しくなることはありません。
想いを入れていないからです。
もし、私たちが今現在、行動が当たり前になり過ぎて、想いが隠れているようであれば、思い切って何もしない日を作ってみてはどうでしょうか。
何もしない日を作ることで、私たち自身の本当の想いに気付くことが出来るようになります。
No Behavior Day!
虐待に関する電話はおよそ4分に1件。来年から児童養護施設の対象の児童が在宅支援になることもあり、さらに発見することが難しくなります。教育と虐待。線引きは明確ではないでしょうが、可能な限り関わっていきます。