本心を言える環境づくりをして行きたい: 依存性から脱却するために必死こいてやっていること(後編)
エッセイ(書きながら考える)の続編です。
前編はこちら↓
以下、考えなから書いていき、必要最低限の修正しかしませんので、非常に読みにくくなる可能性があります。予めご了承ください。
前編のリフレクティングから
リフレクティングとは、簡単に言うと「会話についての会話」という方法です。
対象の投稿はモノローグですが、会話の持つ特性として「一度音声として発音してしまった音波は取り戻せない」と同じく、「一度投稿してしまったものを読まれてしまった事実は取り消せない」という部分に注目して、それをリフレクティング的に振り返りたいと思います。
窮屈さはどこから来るのか
まずざっと読み返して一番引っかかるのは最初の方にあるこの辺ですね。
クライアントの決定を最高のポジションに置き、ステークホルダの誰かにとって不都合があっても、最終的にはクライアントの決定に帰結させる。「そうは言っても、発注元がこう言ってるから(しょうがないよね)」というやつです。
「そんなトップダウンな、窮屈な考え方で本当に良いのか?」という問い
と表現されていますが、ここはもうちょっと説明があってもいいかなと思いました。分かる人にはわかるけど、実感の湧かない人も居るだろうな、と。
これにはたとえ話があります。
=======
クライアントが「ホームページを作ってくれ」とデザイナーに依頼しました。
数日後、クライアントがデザイナーの作ったプロトタイプを見て、「この申込ボタンを赤くしてくれ」と言いました。
=======
ここでデザイナーの取る行動はざっと2つに分岐します。
1. 仰せの通り、申込ボタンを「赤色」に変更する
2. なぜ「赤く」してほしいのかを聞き返す
たとえ話のプロット的には、素人のデザイナーは「1」を選択しがちですよね、と。でもプロは「2」を選択し、「赤くしてくれ」というのはクライアントなりにそういう表現しかできなかっただけで、その真意は「目立つようにしてくれ」だったことを明らかにしていきますよ、と。そうしてデザイナーは本領を発揮でき、色彩に対するプロの観点で目立つ配色をクライアントに提案して行くんです。ね、プロってすごいでしょ? あなたもプロの仕事を見習ってみてね。ちゃんちゃん。
これはこれで美しいナラティヴ(語り、物語)ですが、現実はどうでしょうか? この話をなにかの本で読んだときは感心したのを憶えてます。かなり前のことです。以降、自分がいろいろ経験して思うのは、この話、当事者同士の背景や関係性がかなり「クリーン」に補正されて語られているんじゃない?ということです。
現実はもっとドロドロしてる。
お金であったり、リソースの奪い合いであったり、上下の力関係であったり、今後の取引のための駆け引きであったり…、そういうフィルターがわんさか盛り込まれている中で案件の話って進みますよね?
特に取引額の大きな案件ほどそうなる傾向、強くないですか?
と、まぁそんなことを考えちゃうわけです。
そういう濃いぃフィルターが差し込んである状況で話を進めてたら、いつの間にか申込ボタンを赤くすることで決着する ーーー それが客観的に見て間違った選択でも、誰かが満足するために申込ボタンは「赤く」なることに運命づけられる ーーー そんなことがたくさん起こりまくるわけです。で、そういう中に身を置くことに慣れっこになっていくわけ。
「慣れたんならいいじゃないか」と言われそうですが、それは「間違った場所で間違ったことをし続けている」と気付いていない人にしか当てはまりません。「間違った場所で間違ったことをし続けている」と気付いたら最後、地獄ですよ。自己嫌悪ですよ。不信感丸出しになるわけですよ。もうそこから出たくて仕方がない。抜け出したい。環境を変えたい!
でも同時に気付くんです、めっちゃその悪環境に依存しまくっていることを。
捨て身になる
もう窮屈な環境で仕事する、生きていくのって苦行でしかないですよね。
自分の後半生で同じ過ちは繰り返したくない、と強く思うようになりました。
こういった状況に陥るのを防ぐためにはなにができるのか。最近、そればっかり考えてます。
それで思ったのは、やっぱどっか、捨て身になって意見を言うことが大事なんですよね。
プロジェクトの話をしているとき、敢えてその場の人たちと話せるのは今日が最後かもしれないくらいに考えて発言する。
今日が最後だとしたらなんて言う? なにを優先して話す?
・本当のこと
・中途半端なこと
・嘘
この3つが並んでたらどれ言います? 本当のこと言いますよね??? 僕はそう思いました。
捨て身になるまでのメンタルがちょっと大変かも知れないですけど、テキトーに嘘言ってごまかすよりも、本当に心の底で思ってることをぶつけたほうがいい。それで嫌われたって、怒られたって、排除されたって、まぁ仕方がないじゃないですか。
本当のことを言い合うための余白のない人たちとは関わり合わないほうがいい。なんなら、対話の場はそういう人たちを事前に避けることができるチャンスだと捉えることもできます。日々の営業活動的な部分でなにを努力すべきかって、そういう人間関係づくりだなって、思いましたよ。
本当のことを普通に言える間柄の人たちと過ごしていきたいですよね。仕事もプライベートも。
嘘を言い合ってお金が発生する関係性を作っちゃう(そういうことにしちゃう)方がずっと簡単かもしれないですけど、それって全然なんの得にもならんのですよ。後悔しかない。
そしてそういう不活性な人間関係は、必要な人間関係に注ぐべきリソースを妨害し、人生全体を圧迫するんじゃないかと、これまでの経験から振り返ります。
ここまでは反省と希望の話。
なぜ窮屈なことをそこまで嫌うのか
さて、ここからが前編でも少し触れた「内省」の面白いところになります。
答えは中に探しに行く必要があると感じました。
「窮屈を感じたら、理由はなんであれ、窮屈なことそのものが嫌ですよね?」これが埋め込み概念になってます。
窮屈なことって本当にそれ自体で嫌なことでしょうか?
そんなこたぁないですよ。物理的にも人間関係や思考的なものでも、ある程度の窮屈さは常に求められるものだと思います。
履いてるか履いてないかわからない下着とズボンだったらすごく不安になりますよね? 超頻繁に確認しちゃいますよね。
メンタルもいっしょです。やってもやらなくてもいいことしか任されない、いてもいなくても同じ…そんな扱われ方されたら普通は気が狂います。ある程度「あなたにこの仕事をしてもらう必要があるんです。」と言われ、「その対価としてこれこれの額をお支払いします。」と提示されることで、仕事上のアイデンティティが確保できるんです。
そういった最低限の束縛すらも、完全な自由人からしたら「窮屈」に値するのかもしれないですけど、普通の凡夫からすれば、その「窮屈」は必要なものです。決して嫌ではない。
でもね、やっぱり程度の問題なんですよ。
量の面でも質の面でも、ある一定のラインを超えた窮屈さが脅威になるんです。束縛が関係を作り、束縛が関係を壊すんですね。どのくらい縛られているかを「窮屈さ」が教えてくれるわけですが、よくよく注意を払っておかないと、いつかその関係性は破綻します。
窮屈さにアンテナを張りましょう、という呼びかけはしたいです。
許せる窮屈さと許せないそれを判別しましょう。
破綻するときは破綻した方がいいんじゃないか
窮屈さをWatchすることは結構大事なんじゃないかな、と思う反面、それって別にコントロールしても無駄じゃない?とも思います。
ところがやっぱり物事にはなんにでも限界があるんですね。ある時点から全然うまく行かなくなった。正確に言うと、僕の心像の中でその人物の存在意義(存在の有効性)が破綻したんです。僕から観て、その人物が今までのようにWorkableではなくなった。そう、僕から観て、です。だから、ある意味ではその人物は特に大きく変化したわけではない。むしろ今まで通り、その人なりに仕事を続けてくれてたんだと推測します。変わったのは僕です。
つまるところ、僕の、僕の中での、その人物に対する期待値コントロールを誤ったわけです。元も子もない言い方をしてしまうと、最初からその人物に一切期待しないような関わり方をしておけば、今のような事態にはならなかったと思います。
ここを読み返して思い起こすことがあります。
上の引用部分はいろいろ試行錯誤をやり果てた上で結論的なことを書いてるんです。
僕は数ヶ月の間、できる範囲ではありましたが、件の人物とのチームワークをカイゼンしたい/根本的に見直したい、という想いからその人物に何度かアプローチしてみました。僕なりの本心を話しました。一般的には耳障りの良くない発言もぶつけてみました。そういう行為は「その人物を変えたい」という身勝手な欲求が根源にあって働いていたことだと、後になって気付きました。
随分長い間、「やつが間違っている」「なんで変わってくれないんだ」「なんで気付かないんだ」という思い込みの中でもがいていました。その結果、「あいつは俺を馬鹿にしている」という判断になり、完全にその人物を嫌いになりました。
そのへんの経緯は別記事に書いてあります。
その人物に対して感情的に「嫌いだな」と思うことは今でも変わりません。これは修正できなんじゃないかと思います。でもひとつ大きく進歩したことは、「やつが間違っている」という、この怒りの根源・出発点にあった判断は思い違いだったと理解できたことです。
単純に、その人物と自分との間の人間関係が破綻しただけなんです。長い付き合いの人でしたから、その破綻の精神的ショックが大きかったんですね。それで僕はそれを心の中でネガティブな感情や判断に投影すること、つまり、ショックを直視することをなんらかの代用品に置き換えていたわけです。本質的なことから逃げていたわけですから、その逃げていることの恥ずかしさや悔しさが大きなストレスになっていた、と分析できます。
人に悩み、人に癒やされる
自身とても「俺、恵まれてるな」と思ったのは、こういったのっぴきならない状況をありのままに相談できる友人が居てくれたことです。しかも複数。この悩みは横に長いので、それぞれのタイミングでいろんな方に話を聞いてもらいました。そしてそこから様々なアドバイスを受け取ることができました。それはほとんど精神の旅のように感じました。
彼らの存在がなければ、状況はもっともっと悪化していたでしょう。僕はここで能天気にnoteを書いていないかもしれません。取り返しのつかないことになっていたかも、と思います。
そうそう、ここにこうしてこの件を書けるのは、ある程度自分の中で整理がついているが故です。今このタイミングで湧き上がってきている心情を文に変換できていることに心から感謝しています。
関係の破綻したその人物と業務外の連絡を取ることがここ最近はなくなりましたので、向こうが今どんなふうに考えているかは正直わかりません。敢えてこのnoteのURLを送りつけるような野暮な真似はしませんけど、非公開なものではないので、いつかその人物もこれを読むかも知れません。それを承知の上でこうして書けるのは、その人物へ僕なりにちゃんと伝えたからです ーーー あなたと僕の関係は破綻してますよ、と。
破綻に至るプロセスはそこまで的確に伝えられたとは思ってないですが、一番言わなければいけないこと(=事実として破綻していること)は今年の春に言いました。直接会って。
そこからですね、精神の旅が始まったのは。
だから、やっぱり思うんです、肝心なところで勇気を持って本心を言っておくべきだな、と。
僕のメッセージ
前編にこんなことを書きました。
昨日の夜あたりから自分の中で頻繁につぶやかれるセンテンスがあります。
それは「僕が伝えたいメッセージとはなにか」というものです。
「僕が伝えたいメッセージとはなにか」と自分に問いかけたときに、シンプルな答えが思い浮かばなかったんです。「あー、俺メッセージ性ないかも」と思いました。
でもこの投稿でいろいろぶっちゃけてみてなんとなくメッセージが読み取れました。
それは、
『本心を言える環境づくりをして行きたい!』
ということ。
「環境」というのは、複数の人が集まった組織やコミュニティだけを指していません、自分自身の内面=マインドも環境のひとつだと思うんです。
本心を言い合える他者が居てくれるのは最高の喜びです。しかし、状況的にそうでないとしても、自分自身に嘘をつく必要はないですよ。そうじゃありませんか?
もし今あなたにとって話せる相手が居なかったら、僕が聞き役になります!
それが僕からのメッセージです。
ナラティヴ・アプローチとオープン・ダイアローグ
本心を言うにしても、安心・安全に話せる文脈を提供するのは自分の役目だろうと。そういった自分のニーズから最近夢中で読んでいるのが「ナラティヴ」と「オープン・ダイアローグ」をテーマとして扱った本です。
さしあたって下記2冊を読んでます。
いずれもアカデミックな研究の場であったり臨床の現場であったり、もしくは教育の場であったりが事例として出てくるのですが、この分野で試行錯誤されている「当事者たちが安心して話せる環境をつくる」という取り組みは、ビジネスの話やもっと一般的な学習の場などでも大いに活かせるはずです。僕はそういう想いで「(身近な)このケースにはどんなふうに活かせるだろう?」という目線でそれぞれの本を読んでいます。
ナラティヴ・アプローチもオープン・ダイアローグも、もっと深堀りしたら咀嚼してnoteに投稿していきたいと思っています。
この辺の話題は自分的に非常にHOTです。早速この2冊をNeribaに持っていって話をしたら、関西から遊びに来ていた方が「オープン・ダイアローグとか当事者研究とか、関西では割と頻繁に集まりがあります。みんなで集まって対話しながら問題を話し合っていくという文化は、関西の方が馴染みがあるかもしれないですね」と教えていただきました。静かに感動しました。自分がたまたま注目し始めたものが、こうしてダイレクトに人とつながるきっかけになるなんて、ちょっと夢みたいだなと思いました。
心の奥底から引っ張り出してくる「本心」とはまた違うんですけど、こういう「今これは面白いよ」というライトな本心をなんの気兼ねもせずに言い合える仲間が居るのは、精神衛生上、本当に素晴らしいことだと思います。
***
この前編後編にわけた投稿では、途中結構重苦しいことも書いちゃいましたけど、Neribaの淳君は「心さんの個人的なストーリーが読めて面白かったです!」と言ってくれました。
そういうふうに読んでくれる人がひとりでもいれば書いた甲斐があります。
話せる友人に囲まれていることに、心から感謝をしたいです。
みなさん、ありがとう。これからもよろしくお願いします!
SN
追記: 記念すべき100日連続投稿達成です(^o^)v
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?