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出来事とこころ

人は出来事が起きると、知らず知らずに自身のこころも考えている。
しかし、出来事とこころは切り離すことが必要となる。

それは、出来事とこころを一緒に考えれば「二兎追う者は一兎も得ず」で得るものをなくします。

もう少し具体的にお話をしますと、お正月に売られている縁起物の”熊手”があります。この縁起物の熊手を買われたことある人もいると思いますが、その際、熊手とともに売られる縁起物の”笊(ざる)”を買いましたか?

もし、笊を買われてない方は、次回から一緒に買うといいです。

もともと縁起物の熊手は幸福を寄せると云われます。では、その寄せた幸福はどうしますか?

寄せるだけで放置してては”自分のため”になることはありません。

寄せた幸福は自分が拾わないとダメなんじゃないですか?それに必要なのが「縁起物の笊」になります。それも多くの幸福を拾うには大きな笊が良いようです。

今まで縁起物の熊手を買って家に飾ればよいと思っていた人は、幸福を放置していたのかも知れませんね。

それは損と言うことです。

さて、本題の心のカタチ的にお話します。
今まで心のカタチでは、こころの中にある幸せを感じる”気持ち”を自覚していただく話をしてきました。

それは、どんな時でも自分が幸せかどうかを感じることがとても大切だからです。心は使い熟なしてこそ”自分のもの”と云えますが、使い熟せなければ感情に心囚われ自身を見失わせてしまいます。

そして、こころを知り気持ちを知るだけでは出来事の解決にはなりません。心という熊手を出来事と云う笊と一緒に使ってこそ”自分のため”になるのです。こころを知るだけで放置していては、結果二兎を負うことは出来ないのです。

それは自分にとても便利な道具(こころ)を持っているのに使えねば。

『損』と云うことです。

今まで自身に起きた出来事をどうしてましたか?
解決したいのか。
心を幸せに感じさせたいのか。
両方(かんじょう)では二兎を得ないのです。

出来事とこころは切り離すことで両方を得られて、心を使い熟したと云えます。

心は”幸せになりたい”と常々思ってます。その幸せをさらに感じるためには出来事も解決する笊(ほうほう)がある方がいいですよね。

(心のカタチより)

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