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「こころ、揺れる」 - 異質性とイノベーション

(家の近くに、真っ白で美しい桜が咲いていました。見たことない種類だけれど、思わずカメラを持ち出して残しました!)

私は、セーターが苦手だ。

感覚的なものだが、無理やり理由を挙げるならば、分厚くて身体が動きにくいのに、その制約と比較して暖かさをあまり感じにくいこと、また直接肌に触れればチクチクかゆいし、直接触れていなくても、何となくかゆく感じてしまうこと、ケアが面倒なこと等がある。

それなのに、昔、海外のコミュニティーのイベントであるUgly Christmas Sweaterに参加することになり、必死で住んでいた街で一番ダサいセーターを買うべく歩き回った記憶がある。間違いなく、その間は、世界の誰よりもセーターのことを考えていた。(この話の続きは、記事の後半に続く!)

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異質性を認めないことで起きる衝突が、世界各地で起こっている。それが良いとか悪いとか、どうすべきということは到底扱いきれないが、あくまで自らの経験を踏まえて、異なることこそがイノベーションにつながる、ということを、改めてまとめてみたい。

人と違うことが怖い、そして、自分と違う人が怖い。自分が理解できないことにストレスを感じる人間としては、仕方ない反応や気持ちだと思う。

人によって、興味関心や、異質性や多様性を受け容れられるcapacityは異なるし、絶対的な正解があるわけではない。

ただ、私はこれまで教えてもらったことや、経験を踏まえても、異なることがイノベーションにつながりうる、と信じている。

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詳細は避けるが、留学時代、ある2カ国出身の生徒がいた。彼らが小さかった頃、その2カ国を含む複数の国々で内戦が発生し、お互いの存在を否定しあっているニュースは、私も当時子どもながらに見聞きしていた。

議論が中心のカリキュラム(日本で言うゼミみたいなスタイルの授業)で、その二人の意見が異なることも多く、当然周りの生徒はその歴史を知っているだけに、割って入ることも出来ずにいた。

そんなことが数回続いたある日、一名の生徒が、教授に対して、「この二人をこのように議論させるのは、わざとなのか。当然あなたも歴史を知っているだろう。周りの我々もsensitiveに感じざるを得ない。」というコメントをした。

それに対して教授が言った一言は、私のこれまでの考えを真正面から覆した。

「異なるもの、対立したもの、バックグラウンドが異なるもの、それらは、時と場合によって、痛みを伴うことは分かっていても、ぶつけないといけないことがある。そして、異なるものが、なぜ異なるか、ということをお互いが理解できないと、本質的な解決の一歩にはつながらない。

この二人は、極めて高いレベルの議論を展開しており、私を含めた全員にとって参考になっていると思う。

そして、忘れてはいけないのは、異なることこそが、イノベーションの源泉だということ。イノベーションも同様、これまでのstandardと異なり、ぶつかり、それを乗り越えるからこそ価値がある。」

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その後私が勤務したオフィスには、一つのビルだけで、3000人程が在籍していたが、その中では100カ国以上のバックグラウンドを有する人々が勤務していた。

私が所属するチームの隣のブロックには頭にターバンを巻いた人たちが沢山いる中東デスク、その先には金曜の午後にレゲエやカーニバルの音楽を流す中南米デスク等、本当に多種多様なデスクがあった。


最初は、自分の考えを説明しても、全く理解もされず、フーンという反応と、当たり障りのない褒め言葉を受け取るだけだった。自分は少数派だということをまざまざと見せつけられた、と感じていた。

金曜はcasual Fridayという慣例があり、ドレスコードが緩かったが、ある日、たまに和服っぽい柄の服を着ていくだけで、話したことのない人が気軽に声をかけてくれて、どんどん友達が増えた。

同じものを好きだったり、全く異なることに興味があることで、情報共有になったり、情報交換になったり、そこから、自分たちの当たり前が彼らにとっては新鮮だったり、その反対だったり、色々イノベーティブな発想につながった。

そう、自分も極めて少数派だったが、でも皆が少数派だった。

そして、共感と共に、反感や違和感が価値のあるものであることを、痛みを通じて感じることができた。また、痛みがあるからこそ、その価値もより愛おしく感じることができた。

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冒頭のセーターの話に戻る。

一日中、自分が苦手なセーターを探し回り、結局Christmasという文字が抜けている(枠だけがあり、文字の部分が空洞になっていて、透けている柄)セーターでパーティーに行った。自分としては、周りがダサいトナカイやひどい色のボーダーなどを来てたので、絶対に勝ったと思っていた。

結果として、意味のわからないおじさんみたいな人数名が、黒い空を背景に、ピンク色の雪のような物体がチラつく情景を描いたセーターを着ていた友人がコンテストで一番に選ばれた。

私が選んだものは、全く見向きもされなかった。

いまだに、外した恥ずかしさというこころの痛みだけが思い出として残っていて、何もビジネスアイデアにはつながっていないけれど、ただ、異なることを理解して、自分が苦手なものにも逃げずに参加し、その痛みを味わった経験は、何かどこかでinovativeな発想につながると信じている。(と強がってみる。)

恥ずかしいし、セーター苦手だから参加しないこともできたが、あえて参加したことで、この思い出は、恐らくその場にいた誰よりも鮮明に覚えている。それがinovativeな発想?



いや、やっぱりセーターはもういいや。やっぱり苦手(笑)


でもこれらの経験をしたからこそ、私は異なるものへの興味や関心、許容度が高くなり、また自らの特徴を上手く理解し表現すると、それが双方に思わぬプラスの効果をもたらすことを知っている。そして、その期待を胸に、自分と違う人とも積極的に関わり、意見交換をしようと心がけている。

留学先で聞いた先生の言葉と、そして「世界には本当に様々な違いのある人々がいて、でも一方で、みんな根本的にはそんなに違わない大切なものを共有している」という信念が、わたしのこころを支えている。

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