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こころのかくれんぼ 21         ~本当に醜いものは~

今日も鏡を見る。
あぁ、本当に際限がないのだな・・・とほんの少し泣きたくなる。

取り切れるだけ取ってもらった腫瘍。
でも1年が経たずして、また次の腫瘍が現れている。
再び体表面が覆われるまでに、どれくらいの猶予があるのだろう。

今こうして、傷口を労わっていることや日々のからだへの気遣いが、全て無意味なもののようにも思えてしまって、テープを貼る手がふと止まる。

赤みを帯びている新しい傷。
薄茶の色素沈着を残している傷。
白い線の瘢痕に変わった傷。
そして、新しく生まれかけている腫瘍の隆起。
体幹と上肢は、広がる痣とともにそれらに埋め尽くされていく。

過去と、今と、未来と。
私のからだの上には、時の流れがある。

否応なしに目に見えてしまうのだから、見るしかない。
生々しく触れられるものなのだから、触れるしかない。

繰り返す手術が、いかに対症療法に過ぎないことなのかを思い知らされる。
たくさん傷つけてばかりで、自分のからだにも申し訳ない。
どれだけの負担を強いても、そのたびに回復しようと働いてくれて、黙々と治してくれる奇跡の修復過程を感じ続けていると「からだは自分のものなのだから、どんなに厳しく扱っても自由だろう」とは思えなくなっている。

それなのに、こんなにたくさん傷つけた上に「無意味じゃないの」と思ってしまうことが、悲しくて。大切なからだに「酷いこと思ってごめんね」と、つぶやいてしまう。

そんな時、思い知る。
この自分の姿を「個性」として肯定的に受けいれて、「これが私なのだ」と心から胸を張って生きられていない、という現実に。
ひとりひとりが尊い存在。誰かと比べることなんて必要ない。
病は個性。人は見かけではない。
そんな言葉は自分を奮い立たせるためのもので、生きるための鎧としてまとわなくてはならないもので、虚勢に過ぎないように感じてしまう。

こんな風にしょんぼりしている時は、要注意。
悪意など微塵もない、誰かの些細な言葉にも過剰に反応してしまうことが結構あるから。特に「綺麗」「美しい」という言葉には「自分はそうではない」という否定的な感情が強く強く湧いてくる。
見事なまでに、それらの言葉に瞬時に反応する。
誰も私のことを特定して卑下しているわけじゃないのに、あまりにも身勝手な被害妄想に情けなくなって、苦笑いすることもある。

美しさは外見だけのものではない、内面から滲み出るものだって美しい。
私もそう感じることは、ある。
だけど、人は正直だ。

理屈や理性が介入する隙もないほどに、男女問わず視覚的に美しいと感じたものには、本能的に目を惹かれるし見入ってしまう。
憧れやときめきや、時に少しの欲情も含みながら。

それは異質の存在に対しても、同じように反応するのだと思う。
視覚的に驚きを感じ得るものには、本能的に驚異や嫌悪や不快という好ましくない反応が現れたとしても、自然なことなのだろう。
どちらも隠しようがない、人の正直な素の反応なのだと私は思っている。

醜い・怖いと感じたものに対しても、人はそこに何らかの意味を探り、見出し、その中にも美しさを感じ得る事は出来るだろう。アンバランスさや違和感も、捉え方によってはある種の芸術へと昇華することだってある。
あるいは、人と人との関係性が育まれることで「違和感を気にしない状態」になれることもあるだろう。でも、そこには常に後付けの理由や解釈、価値の転換や信頼関係の構築という時間経過が必要なのだと思う。

どちらかといえば、関係性によって培われた中で互いに感じあう「美」のほうが揺ぎ無いもののように感じるけれど、瞬間的に心を通り過ぎる「美」の破壊力には、こころ折れる時があるのは正直な気持ちだ。

夏は、同性の女性達のあざも腫瘍もない滑らかな美しい肌を見かける事が多くなる。どれほど努力しても決して得られないものに憧れ続けている私に気付き、向き合う季節なのだ。通り過ぎる女性の顔や手を見て、綺麗だな、あぁなりたかったなって。どうしても人前に出すのが怖い腕を覆うために、真夏でも長袖を着ている裾を、見つめる私がいる。

見かけで判断されるのでは?と怖がる感覚があるということは、私自身の中にも誰かを見かけで判断している要素が確かにあるということ。
そんな事実も突き付けられて、自分の中の精神的な醜さが、もぞもぞと動き出してしまう。
求めるものが得られない苦しみ。
自分の中の嫌な感情に出逢う苦しみ。
そんなモヤモヤが増幅するのが、夏という季節なのだ。

そのどうしようもないコンプレックスが自分の中に鎮座している限り、負の感情は生み出され続けると覚悟している。
誰かに「かよさんは美しい人だよ」と言われても、変わっていく自分のからだを自分が見慣れない以上、どうしても素直に受け取れない事もある。
そんな時は、自分こそが見かけを気にしている小さい人間であることを思い知るのだ。

こんな負の感情が存在していること・次々と果てしなく生まれる事を知っていること、その感情を偽りなく見つめ続けることは、苦しい。
人や社会に触れることは、自分を脅かされる機会に触れることでもあるから、自分を守るために全ての関わりを遮断したい時だってある。
でも、それでは何も変われない事も知っているから、こわごわと世の中に出ていくのだ。

負の想いは、誰の中にも様々なかたちで存在しているのだろう。
周りの人は苦しみとは無縁で、自分だけが苦しい、と思ってしまう傲慢な気持ちこそが、何よりも醜いのかもしれない。


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