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人類最難関課題「素直」


(この記事は大学生向けネットコミュニティ「dtto」にて執筆されたものです。
元のURL: https://www.dtto.com/f/jp_daily/p/241981792?ref=ios )

今日の記事は……相変わらず長いです😅
でも‼︎何文字でも書けてしまうのが、dttoの好きなところなので!
あと、今日のが長いのは引用と画像が多いからなので!許してください‼︎‼︎

これまで書いてきてそれなりに評価があった記事たちを、総動員して書いております。
読んで仕舞えば、光の人物像がわかってしまうかも??(笑)

(けど、dtto使ってる1番親しい友人には
「普段接している光と、文章上の光はまた違う」と言われたので、
これを読んだとて私の全てがわかるはずあるまい…という変な自信もある( ◜ᴗ◝))

自分で書いた文章は基本好きなので、どれも私の大切なコレクションなのですが…
1年前のものなんかを読むと、やはり"しっくりこない"部分も生まれていました。
それはどうやら、価値観が変化していたからのようです。

これは私が書いた文章で、1番最初に跳ねた記事です(dtto公式さんにも「この投稿を書いた人」として認知されてるらしい)。
内容はざっくり言うと…
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・ありのままの自分を誰かに愛してもらおうと路頭に迷うなんて、一回きりの人生なのにもったいない‼︎
・まずは自分が愛しちゃえば?そしたら自ずと、ありのままの自分の魅力に惹かれる人たちが集まってくるんじゃない?
・あとは、"ありのままの自分"と"そうでない自分"とのギャップを小さくしていくだけ!
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以下、いつもと趣向を変えて、稚拙なイラストと共にお送りします。。照
絵にした方が、早かったんで…笑


「良き人間」である私、
「ありのまま」の私。


人は誰しも社会に出れば、薄かれ厚かれ
"仮面"をかぶっています。
社会の歯車として動く時、個性を埋没化させている様子というか…理性とも言えるのかな…
ここでは「いい人」としての自分とします(ざっくりネーミングしただけなので、語弊はあります)。

一方で、誰しも家の中まで会社員やってるわけではなくて…。誰の目も届かないところにいる、素っ裸の自分。これが「ありのままの」、「素の」自分。

この2つの出力のバランスが上手くいっていると、ストレスを溜め込みにくい状態・レジリエンスの高い状態を保つことができます。


「ありのままの私」を受け止められなかったあの頃。

以前の私は、「素」の自分の「存在」を認められない人でした。
常に“良き人”でなければならないと思っていたので、「わがまま」「ありのまま」はいけないものだと自分を縛りつけていました。

他者に提供する自分は、「いい人」でなければならない。
そうでないと受け入れてもらえない。

そーゆーものだと思っていました。
以下は私が、このアカウントで初めて投稿した記事です。そんな時に書いたものなので、自分のそういう側面を「欠損」という言葉で表現しています。

けれど、「ありのままの自分」の存在を無視し続けることはできません。
素の自分の存在を認められないと、
"見たくない部分"から目を逸らし続けている状態なので、段々と自責や自己嫌悪に陥っていきます。
だからかつての私は、自分を大切にしたいと思う一方でうまく大切にできない…という状態でもありました。
「愛されるには、頑張り続けないといけない」と思っていた節さえあった気が。

ありのままの私を認められず、存在すら否定していた。


上京、一人暮らし、変わっていく自分…。

しかし、上京して出会った人たちのおかげで私は、「素」の自分の「存在」を
"ひとまずは"
認められるようになりました。

「まずは自分を愛することから始めよう❗️」
「ありのままの自分を誰かに愛してもらおうと、他力本願になるのは辞めて、私が私を愛でてあげよう❗️」
こうして、自分らしさを大切にし始めました。
ありのままの自分の「存在は」認めることができた。

…このとき、は。


親密になることへの恐れ。

けれど、1人の時には素の自分とうまく向き合うことができても、
大切な人や好きな人の前だとやはり、
「ありのままの自分の存在」をつい無視して、
背伸びして「いい自分であろう」としていました。というより、

「ありのままの自分」の「扱い方」がわからなかった。

なのでまた、頑張り始めてしまったんですね〜…
存在を認めることができても、扱い方がわからないので、結局は「ありのままの自分」のことを認められていないのと同意でした。

ありのままの私の存在を認められたものの、
扱い方がわからずこれまで通り過ごしていく私。


出せなかった素、大爆発。

「これも大事な自分の一部…なのに……」
と分かりながらも、無視し続けてしまった。
すると、何が起こったか。

ありのままの私、大爆発寸前。
本音との向き合い方がわからなかった。

とてもじゃないけど、自分で抱えきれなくなってしまったんですね。

だから誰かに受け入れてもらいたくなってしまい、つい、大切な人にこれをぶつけてしまったんです。

こんなのぶつけられたらたまったもんじゃないですよね😓当時の自分、最悪だったと思います…。

無視してきたネガティヴで一杯一杯になり、
半分我を忘れた状態でもあったので…
こうなるとベターな選択は取れませんでした。

心がネガに染まりきっているのに、
そこからどうすれば抜け出せるのか…
当時はわからなかった。

そういう、「ありのままの自分」の"ちょっと見たくない部分"との向き合い方に悩んでた時期に書いたのが、以下の記事。
煮詰まり切ってなかったので賛否両論だったし、「ありのままの自分」に下処理を施さず投下した記事でもあったので、
「やはり『素』を受け入れてもらおうとするのは、一種の賭けに近い」と再確認することにもなった、私にとって貴重な記事です。


「素直」…、あんた何だと思ってんの?

素の自分の扱い方に途方に暮れ、
「ありのままの自分でいるためには、どうすればいいんだろう…」、「いい人を辞めるにはどうすればいいんだろう…」と悩んでた時。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 「素」 と 「素直」 は  違う。
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たまたま手に取ったエッセイに、こうありました。

正直、盲点でした。

これもしや、
「素直に振る舞っただけなのに、受け入れられなかった」、
もしくは
「素を見せてっていうから見せたのに、逃げられた‼︎」
みたいな"すれ違い"が生まれている原因になってるんじゃないでしょうか…?

「私は素直です!」と言っているあの人は、ただ「素」を振りかざしてるだけの可能性も…。

私は、自分でも扱いきれないような「素」の自分を、受け入れてもらいたいがために、
乱暴な形で曝け出すことになりました。
けれど、自分の感情や想いに「素直」だったかと問われたら、そうではなかった。

ずっと自分の"見たくない感情"は無視してきたからです。
曝け出して失敗したからこそ気づけた大切なことでしたので、未練はないけれど、やはり少し後悔はしています。

「ありのままの自分は誰にも愛させない❗️」と言っていた頃は、
○「ありのまま、素」であることと
○「社交的な、模範的な、いい人」であることが対極にある全く別のものとして捉えていました。
交わり得ないと思っていた。
なんなら、「自分で愛してあげなきゃ❗️」とか思っておきながら、下してる評価はマイナスだったような…。
そんな自分の二面性に、ずっと戸惑っていた。
自分で認められる部分だけは「ありのまま」として認めて、"認めたくない・目を逸らしていたい部分"は、自分の一部として認めてはいなかったようです。無意識に自己否定していますね。


「素直」とは、良き人間とありのままの人間のブレンド。

「素直」は実は、
「よそ行きのいい人」な自分と「ありのままで素」の自分との"中庸"であり、
二極化していた2人の自分は実は地続きで繋がっていました。

間違いなく、1人の「私」だったんですね。

ありのままの自分も尊重しながら、
なるべく全人的に受け入れられるのが、
「素直」の魅力なのかもしれません。

ちなみに「素直」は「忠実」とも似てますが、忠実はベクトルが違います。
自分自身に忠実なら「素直」と言えるかもしれないけれど、誰かに「忠実」ならそれは言いなりなだけかもしれないし、ただ自分軸がないだけになることも。

「素直」と「正直」も似て非なる気が。
「正直」は時に、ナイフになり得ます。
"優しい嘘"が存在するのは、正直だけではどうしようもないことがある証拠かもしれません。

イメージ図。私はこんなふうに、
似ている言葉の微妙なニュアンスの違いが気になる人間。


伝える。それは技術。表現技法。

大切なのは、
◎"自分の気持ちも尊重した上で"
◎"相手の気持ちも踏み躙ることなく"
◎"自分の主張を伝えてみる"

こと。

2つの気持ちをうまくブレンドして、
「素直な気持ち」として差し出してみる。
素直であろうと努力することは、誰も損しないと考えています。
自分の意思も汲めるし、相手の意思も汲める。

わたしの気持ちと相手の気持ちを織り交ぜて
受け取りやすくしたオリジナル・ブレンド、
『私の素直な気持ち』。

自分で「ネガティヴだ」として押さえ込み、認めたくないその感情も、大事な大事な「自分の想い」です。
溜め込む必要はありません。
うまく伝える練習をしていけばいい。

ネガティヴにも、ポジティブと同じだけ
向き合う価値があります。

嫌いという感情は実は、好きという感情と同じくらい、私たちにとって大切な感情です。
疲れたという感情は、あなたの身体を休めるための大切なサイン。
ネガティヴな感情は、居心地の悪さを教えてくれ、自分を大切にする第一歩になりうる。

だからまずはネガティヴも「認めてあげて」。
「うまく伝える・処理する」ことができるよう、練習すればいい。

…はい、これが「素直でいること」が難しくて、私たちが日々苦戦する所以です😇
湯加減の調節がむずかしいし、
「素直」が最優先事項じゃなくなる時だってあります。
お金を稼ぐため…時間を無駄にしないため…失敗しないため…。
私たちは平気で「素直」であることの優先順位を下げてしまいます。
これが、私が「素直」を「人類最難関課題」と題した訳です。


素直に話す「技法」・アサーティブコミュニケーション

…実は、私がここまで話してきたこと、
私の独論ではないんですよね。

ここまで話してきたことは、
「アサーティブ・コミュニケーション」
といって、実はもうすでに体系化されているんです。

「アサーティブ・コミュニケーション」は、
比較的最近重視されるようになったコミュニケーション形態のひとつです。

「アサーティブ・コミュニケーション」。
「アサーション」とも言うのですが、
アサーションはどこででも求められ、
どんな人間関係の場でも活用できます。
というか、活用されるべきものです。

日常生活の中でも、職場にとどまらず、夫婦のようなパーソナルでプライベートな関係においても、心地よい関係構築に多大な効果をもたらします。

様々な観点からアサーションについて書かれた本がいくつもあるので、
気になった方はぜひ手に取ってみてください🙌
おそらく就活にも役立つのでは…?
(購買欲の刺激の仕方がキャリアセンターみたい…😇)

ちなみに、"コミュニケーション"については以下のような記事も書いています。
私が書いた記事の中で1番、いいねも保存数も多かったものであります😊

「初対面から仲良くなるまでのフェーズで求められるコミュ力」が以前の記事だとしたら、
「すでにある関係性を深めたり持続させたりするためのコミュニケーション」がアサーションといった感じですね。


素直な私でいたい。

失恋の傷を癒しにふらっと立ち寄ったバーのママの話を、飲み込めなかった頃に比べれば私は幾分素直になりました。
先日、インターン面接にまっっっっったくのNO対策で臨んだのですが、ありがたいことに合格しました。
このときの面接官からのフィードバックで

「失敗を認められる素直さが、大変いい。」

と言われました。
私は自分のガクチカの穴を突かれた時、
「おっしゃる通りです。
なので、こうすれば良かったんじゃないかなと、今は思います。」
と答えたんです。

「それって、もっとこうすればいい結果出たんじゃない??」
という問いに対して、
(しまった…)
と黙り込んでしまうよりも、
「確かに。こうすればいいかな?」
となる人との方が、たしかになんだか、
一緒に働きやすいかもしれませんね。

「素直」は、人類最難関課題かもしれないけれど、向き合い続ける価値があると私は思います😌

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