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原初の方程式の存在

今悩みを持つ人に読んでほしいです
自分のとった行動の理由を聞かれると。なんとなく、雰囲気、といったように無数の要因が絡んでくる、こういった要因すべてが数理モデルであらわせるとしたら、ビッグバン理論からもっとも根源的な方程式、原初の方程式が存在することになる。

これは運命論を肯定することになる。すべての現象は原初の方程式の拡張であり、今この生活、これからさえ定義できるようになる。しかしこれは理性に反するのではないか。おおまかな運命論は一理あるとしても今この瞬間やこれからの行動がもうすでに数理モデルのうちに組み込まれているとは考えづらい。理性に反するときそれはもう偽であるといえる。理性による判断で合理的かそうでないかが判断されるからだ。すなわち過程というものを数理モデルで表現しようとすること自体が無意味なことではないかとさえ思える。では、意味ある行為とはなにか、それは存在するのか。すべての行為は無意味のように感じる。そもそも意味を求めることが間違っているのだろうか。

ある行為が意味ある行為なのか無意味なのか判断するのは難しい。
人生に意味があるかなんて考え始めると止まらない。しかし確実にいえるのはこの問いかけ自体に大きな意味がある。

日々忙しい日々を過ごしていると多くの人がこういった答えのない問いについて話すことを嫌悪し、避ける傾向にあると思う。こういった問いを真剣示考えることは若い世代に固有のものなのか?

これはこういった問いに潜在的に感じる恐怖があるからだと思う。
自殺してしまうような恐怖感がぬぐえない、このまま答えのない問いを考え続けたら自分はどうなってしまうのか、頭がパンクして死ぬのか、究極の心理にたどり着きすべてを達観してしまいこれまでの人生に悔いるのか。

こういったマイナスの考えしか生まれない。正直、自分はそうである。
しかしこういった恐怖に立ち向かって哲学を考える。それは理性的には間違っている行為かもしれないが本能が私に思考させるのだ。

ここまでくると宗教的になってきた。自分の考えをこうしてnoteに書いてまとめるといつも思考が飛躍しどんどん思想が出てくる。宗教が悪いことだとは言わないが、宗教などにハマると人は一方向しか見れなくなるというのがダメなところだと思う。

人間は理性をもつ。これは目の前にエサがあるから食べるという本能を抑える効果がある。理性により目の前のモノに対して立ち止まって多角的に考えられるようになっているのに、宗教などを信じ込んでしまうと決めつけが発生し本能のままに生きているように感じる。

立ちどまり多角的に分析することが人間の本質である。
そういった意味で日本のような無宗教(?)の国は理性的、人間的であるように思える。それにより日本独自の強さが生まれるのだ。ただ本能的に生きる宗教国のほうがスピードがあるというのも否定できない。

私たちはもう少し恐怖に打ち勝ち哲学的思考を行うべきだ。

正直怖い。しかし人間的に生きるために必要だと思ってほしい。
哲学的な大きな問に向かうとき日常から切り離される。現実世界に悩みを感じている人ほど、人生とは何か、生きがいとは、といった問いに真剣に考える時間を作ったほうがいい。たいていの悩みはどうでもよいことであり、自分が生きている。自分であるという感覚を得られる。

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