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今週のMornin#54

展示一過

グループ展 「living note」 が無事に滞りなく終われた。
ただ実際には何も終わっていない。生きていくということは、いつでも、今までも現時点でも、なんならいつまででも終わらないことで、それでよかったといつかでも思えて欲しくて、プラスの感情でなくても生きてよくて、暗くても寂しくても、生きていくことは何も悪いことでなく、どんな形でも続くことに怪訝にならずに済むように生きて欲しくて、自分ってこんなに変なところでわがままに生きているなと、結局は自分も祈りが、祈りこそがと思うことになった。

繋がること、朽ちること、が一つの自分のテーマとして展示をした。それが生きることだと思った。ただ、どうやって生きるのか、なんのために生きるのかと、いつまでも答えが出ないことが答えだという不明瞭さと不確実性に直面することの恐怖に耐えてもらうなど、いろいろと祈りが展示に重なった。
順路で最後の展示場所だったので、いろいろと杞憂をした。みんな疲れているんじゃないかとか、もやもやしているんじゃないかとか、そういう杞憂が自分の要らない趣味かもしれないとも思った。だからこそ2つの展示と1つの文章を書いた。あまり何も考えなくてもいいように、ただ考えたくなった時にきっかけになり得るように努めた。それ以上、それ以外のことは他人のものであるべきだと。
今日はここまで。

winter lake


今週のMornin

on chair 

写真の感想


今回の展示で使っていた椅子で、展示者が一休みをするために使っていた椅子だった。そういう、医療に関係する人たちが集まって行った展示で、その人たちが癒されるために使うものにも光が当たって欲しいと思った。今回の展示が終わって搬出も終わって、会場に残っていた椅子が、どこかそういう存在に見えて、あまりに頼もしく見えた。助け合いというより、施し合いだな、と思った。この世の1番の功労者は無機質だと思う。


F4 SS1/250 ISO2000
NOKTON 35mm F1.2 X mount

風、いつ休まる

地球に重力がある限り、天体が自転している限り、宇宙が宇宙であり続ける限り、何かが完全に休まるという瞬間は厳密には無いのだろう。そこで行われている、人間が「休む」という営みはきっとマクロの世界では休まっていないのだろう。とはいえ人間は眠るという行為で営みのかなりの割合を休めている。脳も休め、体も休め、感情も休め、精神も休まり、何かの器みたいなものの容量は変わらなくても、そこにすでに入っている内容物を消すか縮めるか取り出すかをして余裕を作りだし、また人は目が覚め起き上がり生きていくのだ。それが結果的に休まるということになる。そんな時点で、すでにかなり、いい加減なシステムの中で生きているのが人間なのかもしれないと思う。真面目に理不尽に考えれば、やっぱり人間は常に何かを消費している、自分のことはもちろん、食事だって時間だって、この空気もとい大気だっていつも常に消費している。そういう感情がないような無機物にも休まる瞬間が来て欲しいとも思っていたら、それはきっと、全部一緒に全て、いなくなる時だろうなと思った。最後に吹いている風の気持ちを考えたら、なんとなく生きるかと思えた。それで吹かれて飛んだ埃の気持ちを考えたら、なんとなく死なない方がいいかと思えた。こうやって瞬時に自分に突き刺さる針のような衝動性を抑えて、雨にも感謝できることがありがたくて素敵であり続けたい。


marble


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夏はアイス、秋は焼き芋、冬はおでん、春はさくらもちを食べます