今週のMornin#39
春より団子
春一番が吹いたらしい、確かに強く冷たくない生ぬるい南風が、緩急つけて街に吹き荒れていた。飛ばされそうになったわけでもなく、外に立てかけていた自転車が傾くこともなく日常も大きくは変わらない。何かが終わる瞬間で冬が春に変わる瞬間が毎年のように寂しい。春になるというより、冬が終わるという感覚だ。夏は過ぎて、秋は深まって、冬は終わる。
今週のMornin
写真の解説
初心に戻って、この写真のどこが好きで、どこを見ていて、どんな気持ちで撮ったのかを書く。
自分はこの写真の分かりやすさが好きだ。真ん中の名前もわからないお花が主題になっている。そこから上下左右に広がる枝は副題にもならないくらい目立っていない。背景の青はただのyoutubeの動画を流しているだけのディスプレイだった。タイミングとして、黒背景を待っていたのだが、偶然青くなったタイミングで自分は撮っていた。中央上半分の白い光源はただのデスクライト、正直撮影となれば恥ずるべき要素だったと思う。これからは自宅であるとか部屋のテーブルであるとかがわからない。主題と背景だけで考えた場合いらない要素だったと思う。周辺にかけて描写が甘く収差も出ている。1段程度絞ってもよかった。ある意味左下角が余っているので構図的にも正直あまり宜しくはないだろう。ただ、客観的に誰かがよろしくないと言ったからといって、撮らなくてもよかった写真とか要らない写真なんてものは、ないと最近は強く思う。撮るか撮らないかでしかない写真に、撮られた写真である以上、やはりそこには何かしらの価値や意味があるのだろう。
被写体は部屋に飾っていたドライフラワー、コットンフラワーともう一つはわからない。小指の爪より小さい、きっと水を吸って生きていた時はふわふわしていただろう花びらはもう乾燥している。進化の過程図のように色々な方向に茎が広がる様子がとても好きだった。ドライフラワーが好きな理由は、変わらないことだ。育たないこと、とも言うかもしれない。ドライフラワーは被写体としてもとっても優秀です。変わらない被写体に変わり続けないと生きていけない人間とが対峙しているのだから。
変わる可能性と可逆性
春は変化が多い。季節としても寒いところから暖かいところに、まるで山の上下のように、下から上に行くような表現をされることが多いと思う。少し冬に優しくないなとも思う。どうしても気温を表現する時も高い低い、上がる下がると表現するし、冬は嫌われ者扱いされることも多いと思う。冬から春になる時に、たまに冬のような気温に逆戻り、みたいな表現があると思う。逆戻り、可逆性があるということにひとはあまり深く考えないかもしれないけれど、可逆性があるというのはとっても、優しいことの一つだとも思う。たいてい、変わらないものが多いこの世界だと思うから。
見上げて見えた星よりも、大きく明るい月が特別優しく正しいわけでもないだろうに。
夏はアイス、秋は焼き芋、冬はおでん、春はさくらもちを食べます