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今週のMornin#20




大義名分の面白くなさ



「私は〇〇のために表現をしている」
「俺は△△のために創作をしている」
に溺れすぎてしまうくらいなら、それで疲れてしまうくらいなら手放したほうがいいような気がしている。
大義名分とはよく言ったもので、自分のエゴイズムを正当な理由として他人への影響がどうあるかを思慮もせず好き勝手振る舞う姿が袖の間から見えている。皆が誰しもが、大きくて偉大で尊敬されるような目的・目標を表明しなくたって生きていていいのだろうし、何かを外に出したっていいだろうし、呼吸よりも負荷のかかることをしたっていい。
海や川に自分が沈んだだけで、波が立ち水流が乱れるが、それで困る人のことを考えてしまったら生きていくには棘だらけだ。困った時には沈黙がいい。

He truest way to be deceived is to think oneself more knowing than others.
虚栄心に駆り立てられることがないとき、我々は沈黙する。


今週のMornin


ray


自分にとっての写真は、記録である以上に自分と世界との関係性だと思った。短歌に熱中していた頃も、しばらくして同じように感じたことを思い出した。創作だなんて言えずになんとなく書くだけ書いていて、日記や散文・備忘録・雑言集等、それらの行き場なんて考えずに、呼吸や循環や、もはや吐瀉物のようなそれらが、本来どういう役割なのかと常々考えている。
表現したいものありきで、それに自分の何かを肉付けしてもなんだか仕方ない気がしていて、特にそれらが良いとか悪いとかではなく、あくまで自分の思考とは明らかに違う。
短歌も写真も似ている部分で言えば、写っているのはあくまで関係性だ。
事物や現象・環境との関係性、そこに感情や存在が乗って居ることもあるだけ、被写体が人間だとしたらそれぞれとの関係性。食事や飲み物だとしても、生き物でも亡くなったものでも。自分はなぜその関係性の写真を撮るのかを考えるには、もう少し時間がかかりそうだ。


写真の反省

被写体はペーパードリップした後のコーヒーサーバーを上から撮ったものだ。常に牛乳は家から切らさないと豪語していたが、しばらくうちには牛乳がなく、昨晩久しぶりに1Lの牛乳を買った。自分はコーヒーかフルーチェでしか牛乳を消費しないから、買ったその日からコーヒーに入れて飲むしかない。猫舌だからとブラックコーヒーに入れ始めたその牛乳は、アイスコーヒーにもルーティンのように入れるようになった。ブラックコーヒーが飲めないわけでもないのだが、なんとなく牛乳が欲しいと思う。甘さよりも牛乳の棘を削りヤスリ掛けをするようなものが落ち着くとだとか、後付けになんでも言えてしまうが、これはもうおそらくただのルーティンだ。

鳥籠





土砂崩れ如きでなにかを諦められない人間は、道なき道を歩くしかない

この前、友人から写真を見せられて、どう撮ったらうまく伝わるかとか、自分ならどうするか、みたいな質問をされることがあった。自分だったらどう写真を撮るかと聞かれて答える過程には、やはり自分が写真に対してどう撮るのがベターで美学で正しく優しいと考えているかを思い出させられた。一通り自分なりに答えたら、意図はなんとなく伝わったようで感謝された。自分の美学を誰かに伝えるための写真でもないのだが、これはこれで写真の面白い部分の一つかもしれないとは思った次第だった。下手に自己紹介をするよりも、写真を見せ合う方が人となりが伝わることもあるだろう。つくづく写真は言語で、コミニュケーションだと思う。

2022.新宿御苑

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夏はアイス、秋は焼き芋、冬はおでん、春はさくらもちを食べます