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今週のMornin#22


微熱継続

夏か秋かと思っていたら、もう秋か冬かと急かされている。
永すぎた夏だったから、最近は毎年そうだが、秋の着地をする前にまた冬が来てしまう。冬は好きだ。だからといって、今すぐ目の前に来られても困ってしまう対象ではあると思う。どんなに好きで愛しているような人でも、人間はそういうわがままさがあるだろうし、それをどこに置いてくるべきなのだろうか、分からない。ただ、だんだんメンチカツとアジフライが美味しい季節になってきた気がする。



今週のMornin

hare


孤独は野うさぎのようでもなく、ずっと海を回遊しているマンタみたいなもの、なのではないか、どうして寂しくないのか。馬鹿らしいなんてわかっているが、考えることがよくある。自分の寂しさと向き合い取り出すのと同じくらいに、誰か他人、他の存在にとってそれはどうなのかを考える。意味があるとか目的があるとか、目的はあるのだろうが、意味はあまりない。


写真の反省


先週行っていた葉山での写真。葉山公園近くの弧を描いていた海岸を撮っている。山並みの角度と下半分の海岸線が少しだけ相似できれいだった。左角の草がちょっとだけノイズかもしれないけれど、ちょっと人間っぽい存在感で少しだけ許せている。うっすら真ん中を見ていると赤い屋根の家に目がいく、そこから弧を描いて1番手前の人たちが最後に眼に止まり、最後に波や空が見たくなれば本望だと思う。曇りの露出は苦手だ、だからこそ目を開いて世界を見た方がいいなと思った。





どこを触り、なにを食べるのか


void

1日、1週間と人生が流れる中で、自分が1番触るものはなんだろう。きっと自分だろう。そんなに接触が多いのに、どうしてお座なりにしてみたり明らかに大切にできない瞬間が生まれてしまうのだろう。自分に試し行為をしたところで、それを受け止めるのも検証するのも自分でしかないだろうに。それを誰かに見て欲しいのならそれでいいのだが、あまりお勧めできないと思っている。自分もそういう行為を一通り試してみたが、あまりに夢夢しいことだった。そんなことより、一緒にミスドに行って2つか3つ、選んでドーナツを食べた方がきっといい。それか別にいい方法があれば教えていただきたい。




どうせ覆われるなら


slouch

先週から、いつも写真を撮るときに使っているカメラをひとに預けている。理由は色々あるけれど、自分じゃない誰かが自分のカメラ、他人のカメラでどんな写真を撮ろうとして、実際に撮って、残してくれるのか、勝手に気になっているからだ。カメラはどこまでいっても、どんなに神格化するような人たちがいたとしても、あくまで道具だ。使うものだ。しばらく2、3週間くらいだが、嫁に出す気分で少しだけ肩の荷が降りた気分だ。いつもカメラを仕舞っているスペースに、ちょっと多めに本を持ち出したり、お気に入りの香水を詰め込んだり、これはこれで楽しく暮らせていると思う。もちろん、寂しい気持ちがあることも認めよう。だって、少なからず自分の人生を見ていてくれたものだから。せいぜい羽を伸ばすことだね。

代わりにRX0Ⅱで写真を撮っている

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夏はアイス、秋は焼き芋、冬はおでん、春はさくらもちを食べます