今週のMornin#27
曇天でも愛せるか
何かを「守れる」だとか、「治せる」だとか、傲慢、傲慢。本当に甚だ烏滸がましい。と思う。どこからそこまでの自信が出てくるのか。自信があるから口から出た言葉とは到底思えない。可哀想なだけだろう。可愛そうなだけだろう。そんなくだらない自己愛のために、よくも、よくも。と思う気持ちを、最近は毎晩毎晩メルカリに出品をしては朝になったら出品取り消し。売れたらいいかと言われれば決してそういうことではなくて。出品したら大体満足しちゃうんです。そういうものでしょう。勝手に救えると思われたら大間違い。踵を返して振り向かず、気をつけて帰って来なさい。
今週のMornin
写真の感想
先週からのMorninに友人が撮ってくれた写真が入ると思うとお伝えしていたが、実は今週の写真は全て友人が撮ってくれた写真だった。前回お話ししたことはなんとなく覚えているだろうか。
もちろん「生きている人の気配」だなんて、自分の勝手な感想で、鑑賞にも満たない雑言かもしれないが、どうだろうそう感じてくれただろうか。気配というのは、1ミリでも10メートルでも、薄い色の付いた髪1本でも、飲みかけのペットボトルからでも感じるもので、それを自分は勝手に読み取っているだけだとは思う。でも、たった一人でも、そう感じる人がいるのが人間で、写真のいいところでもあるだろうし、その感想を伝え合うのがコミニュケーションだと思っている。写真のこと、ほどほどに好きでいるために。
部屋の中から壁と窓を撮ったのだろう。中央に窓枠を置いて左右2分割にし、右側と左側で共通する光の束も美しい、左側に溢れる生活感が見え、何の家電かはわからないが明らかに人工物でそれを扱う人間の気配と生活の音が聞こえるような影がついている。ここまで見たところで壁と窓の模様と素材がくっきり写って見えて、2分割しているようで、決して元々一緒だったものを2つに分けたのではなく、目で見えた世界で2つに分かれた見えたもので、それをどうにか伝えてくれようとして撮った写真なのだと思うと、カメラを貸して写真を撮ってくれてよかったと思う。正直、自分には撮れないなと思う写真だと思う。また貸し出して写真を撮って見せてもらいたいもので。
有象無象の中にいることも、自覚があれば綺麗なものに
都心から離れた森の中にいるときや、周りに暗い海しかない岩場の先や、猛吹雪の中で上か下かも何も分からなくなった時、正しくポツンとひとりぼっちでも、新宿の改札の前の雑踏にいる時、主に有象無象と呼ぶようにしている、と同じような気持ちになる時がある。自分は常に何かを考えている。頭が休む間もなく思考を繰り返している。ようやく最近思い出したかのように自覚が出てきた。全然、何も考えずに生きているつもりで、全て本能で惰性でいつ死んでも悔いも呪いもないと思っていたからこそ。そう考えると睡眠は本当に救済の一つだ。考えなくていいという時間にも常に何かを考えているのだから、いくら草臥れたとしても、横になっても休まれない。もう焦っても仕方がないところだろうし、今はスイッチを誰かに切ってもらって眠っているところを、いつかリモコンみたいなものに切ってもらえたらいいかなと目標に生きていこう。
あと遺影、遺影が欲しいです。昨日、お友達とご飯を食べていたのだけれど、見たこともない笑顔で写っている自分がいて、意外と人間らしく生きているっぽくて、眩しくなってしまった。そういう写真を撮られるのも良しとしておこう。
11月も終わり
そろそろ会う人たちに「良いお年を」と伝える季節になってくる。そういうお友達が元々多くなかったから、東京に来て人と会うようになってから口に出すようになった言葉で、やっと使える大人っぽいかっこいい一言だと嬉しくもなるけれど、それはお別れの挨拶もあって、もう2度と会えないかもしれないかもしれないことは変わらない。「良い」も「お年を」も良いけれど、やっぱりしばらく穏やかにそのままの君で生きていてほしいという事をとにかくひたすら伝えることを忘れないようにと同時に思った11月だった。会ってくれるということは、時間もお金も心も体も全部費やして、それでも会ってくれる人というのはどういう価値があって、どういう、どうしたらとずっと考えている。「良いお年を」まだまだ言いたくないなとも思うけれど、そろそろ言っておかないと忘れちゃうかなとも思う。
そういうちょっとしたギャンブルの12月が来ます。
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夏はアイス、秋は焼き芋、冬はおでん、春はさくらもちを食べます