「あなたが心配で」と、子にしがみつき、己の「心の汚物」を他者に投げつけ続けた大人たちが囚われた「普通」の世界という地獄

この世は甘くない。世間は厳しいし、金を稼ぐということは並大抵のことではない。
まして、「普通」の暮らしをしようと思ったら大変だ。
同世代の友人たちはほとんどが持ち家だ。
結婚して、子供がいて、共稼ぎして、身なりもきちんとしている。
給料が上がり続ける時代ならいざ知らず、この時代に親世代がやってきた「普通」をしっかりとこなすことは非常に難しい。

でも、いま、日本社会を取り仕切っているのは高齢者だ。
政治でも会社でも地域社会でも、日本は「老人支配国家」(エマニュエル・トッド)である。
であるからして、本来アップデートされるべきだった「普通」「常識」が、50年ほど停滞していないか。

同世代の家庭は本当に一生懸命にやっている。
それは、老人世代だってかつてはそうだったろう。
でも違うんですよ。
将来に夢も希望もあった、情報が完全に透明ではなかった世界の努力と、
将来がある程度の確度を持ったテクノロジーによって見えている世界とでは。
情報は完全にオープンであればいいというわけではないのです。
知らない方が幸せだったこともある。

将来起こりそうなこと、災害のメカニズム、その対処法・・・
そういうことが誰もがスマホからアクセスできる時代には、逆に言えば「知らない」ことが自己責任になる。
それだけいろんなことを「自己責任で」知っていなければならない。
別に知る必要もなかったスマホ操作や、ネイルの綺麗な塗り方、洗濯のTiPSを、われわれは「普通に」知っていなければならない。

そういう「知らないでは済まされない常識」が無茶苦茶に増えた。
体感としてはこの10年ほどで加速度的に増えた。
30年前なら「テレビでやった翌日はみんな知っているけれど、1ヶ月後にはみんな忘れている」ような細かい生活上の常識が、すぐ自分で調べて知っているべき「普通」になった。

みんなが無知であるという平等な世界が終わってしまった。

と、そういう情報化アンチみたいな懐古趣味を垂れ流すつもりはない。
じゃあ私たちは何を考える時間が減ったのかってことだ。

私は小さい頃からずっと、自分の親、特に母親の在り方には疑問を持ってきた。
彼女は比較的裕福な家に生まれ、当時としては珍しかった私大の四年生大学に進み、成人してからは(娘には似ても似付かぬ)アイドル並みの容姿でモテまくり、就職は親のコネで難なく入社し、その美貌でいわゆる当時の感覚での「3高」を捕まえて主婦になった。
彼女はすべてを手に入れたトップ主婦だったことは違いない。

しかし、彼女は年老いた今でも、自分の気持ちというものがまったく分からない。

外部刺激に満ち溢れた人生であるから、「自分の気持ち」なんてしちめんどくさいものを分かる必要もなかったのかもしれない。

自分の気持ちの分からない人間に、他人の気持ちが分かるなんて、そんな甘っちょろい世界線は古今東西存在しない。
いくら情報化が進んだとて、「わたしは一体何を考えているのか?」という質問には誰も助けを出すことができない。


まあ、そういう人間がいることは仕方がない、という人がいるかもしれない。
けれども私はこう反論したい。
「人は自分の気持ちが分からないからと言って、自分の気持ちを自動的に処理できるわけじゃないんです。自分の気持ちが分からない人間は、他人を使って自分の気持ちを整理しようとするんです。それって、迷惑だと思いませんか?」と。


特に若い頃、母は「娘が心配だ、心配だ」と喚いた。
私は特段なにをしたわけでもなく、普通に生きていたわけなので、それが嘘であることはすぐに分かった。
だから小さい頃から母親のことをまったく信用していなかった。

彼女が心配していたのは、自分の気持ちが分からない気持ち悪さについてだろう。
「本当はもっと遊びたかった。いろんな男とデートしたかった。私はモテたのに!」
そう本音をぶちまけることも多々あった彼女だが、それは「うっかり」であって、その本音と向き合うことは生涯なさそうだ。
あくまでも「娘の心配をするいい親」の仮面は手放さない。

彼女が本当はどんな不満をもっていたのかは誰にも分からない。
けれども、「娘が心配」は二次感情であって、本心の本心ではないことは容易に分かった。
彼女はいつもそうやって、自分の醜く怠惰な本性から逃げたがる。
イマドキの、加工がないと顔をさらせないインフルエンサーのようだ。

そうやって彼女は「娘を心配する」という体をとって、自分の心の成長から逃げ続けた。
きっとそうやって「美人」というペルソナにしがみついたまま、心は幼女のまま、死を迎えるであろう。

心の成長ほど人生で苦しいことはないだろう。
誰のせいにもできない、誰のためでもない、すべての不利益を一人で背負い、一人きりで解決しなければならない。

ひとえに仕事の悩みと言っても、それを因数分解していけば、必ず自分の至らなさと向き合わねばならなくなる。
だから、一般論として、転職を繰り返す人は「自分の課題と向き合うことから逃げる人なのかな?」とレッテルを貼られるわけだ。
無論、この世にはヤバい職場というのがゴマンとあって、そこから必死で逃げているケースが大半なのだが、やはり人間は直感的に「この人は環境のせいにして自分から逃げるのでは」と思ってしまう。

母は、自分にとって都合の悪い状況が起きると、途端に過干渉ごっこをした。
幼少期から慣れている私は、好きなようにやらせておいてあげる余裕があったが、その相手は本当に面倒だった。
まあまさに、私の人生は幼児の子育て同然であった。

しかしながら、心が幼児のまま大人になった人というのは、その事実を否認してしまう。
どうしても、自分が自分の課題を置き去りにして、先延ばしにして、片付けてこなかったことを認めることができない。
だから役割に固執する。
母は、「母親」「妻」という役割に固執し、今もずっと「母親ごっこ」のおままごとを止めることができない。

役割がなかったら空っぽである自分に向き合うことが、どうしても、どうやっても、できない。

同じような話は男性でも聞く。
会社で与えられる「仕事」に固執し、与えてもらうタスクをこなす達成感がなかったら自分を保てないのでワーカホリックに陥るような人は、同年代でも多いように思う。
「これさえやっていれば、なんとなくヒトとして立派そう」
な役割ごっこに昂じてしまう。


でもね、この世はそんなに甘くないんですよ。
そのことは私は身をもって知りました。
自分の無能さ、無力さ、どうしようもなさ、小ささ、そういうことに真に向き合う前の私は、やっぱり、体調が悪かった。
自分に期待して追い込む楽しさに耽っていた。
だから、他人に期待して追い込む楽しさにも耽っていた。
そんな、クソな人間だったのです。
そりゃあそんな母親から純粋培養されたクズでしたのでね。

私なんてべつに何もできない普通の中年女なのですけれども、そこになにか意味や意義を見出さずには生きられないシステムが構築されていたのです。
その只中にいるときにはどうしてか気づかなかった。
でもいま、「鉄の檻」(ウェーバー)の外に出て、分かった。
私はもう自分に何の期待もしていないし、他人になんの期待もしてはいない。
いま、動いてくれている自分の身体には感謝しているし、仲良くしてくれている周囲には感謝しているけれど、もう、何も考えなくても、私は私が何を考えているのかよく分かるから。

もう、他人を通して、自分というものを知る必要がないから。
知るべき自分と、知りたかった自分が、同じだから。

情報の渦のなかに身を委ねていれば、何も考えなくて済む。
日々役割が与えてくれるタスクをこなしていれば、何も考えなくて済む。
小さい頃は「友達さえ作って学校さえ行けば」。
ある年齢になったら「高等教育を卒業して、安定した職にさえ就けば」。
社会人になったら「仕事をして、家庭人として最低限のことさえすれば」。
なんとなく、格好がつく。
別にそれが悪いとも思わないが、あくまでもグラデーションの問題だということを言いたい。

役割にかまけて自分の気持ちと向き合わないと、結局、一番身近な人間を食い潰すことになる。
もっともよくあるのが、自分と向き合わない親が子供の心を食い潰してしまうケースだ。
親は100000%の善意で「役割」を全うし、実際に子供を10000000000%愛している。
うちの母親だって、私のことを本当の本当に愛してくれている。

だが、自分の気持ちに向き合わない大人が、全力で、常に、たった一人に、その心の葛藤を丸投げてきたら、相手の心は潰れるのだ。
それには「悪気がありなし」は関係ない。
恋人関係であれば「重い」といってスッパリ切ることのできるこの問題が、親子愛となるとむしろ美談になってしまう。
同じですよ?
誰だって、自分と素直に向き合う勇気のない人間の、心の葛藤の処理に四六時中ずっと付き合い続けることなんてできないのですよ。


私は、少子化の原因というのは、ここだと思っている。
自分が本当は何をしたいのか分からない大人たちに囲まれて育った人は、大人の心の葛藤を引き受ける場としての家庭を「めんどくせえ」と思っている。
「え、学歴とか別に必要なくね?それってあなたのプライドを満たしたいだけですよね?」
「え、なんで学校や会社をサボっちゃいけないわけ?そりゃ体調悪かったら休むのが普通でしょ。それってあなたの世間体を守りたいだけですよね?」
みたいな、超素朴な疑問に答えることもできなかった大人たちに「食いつぶされて」育ったいまの働き盛り世代たちは、
未来の世代を守るために、犠牲者を増やさないという選択をした、ただそれだけのことのように私は思う。


くだらねえことは、くだらねえと言う。
そうやって「常識」「普通」に反する言動をするためには、その人に責任が生じる。
「くだらねえ」けれども真っ当な社会生活を送る代替手段を提案できなければならないからだ。
そこには強さが必要だ。
だから、基本的に、常識には従っておいた方がよい。
私もずっと、「常識」「普通」に沿って生きている。

だが、「常識」「普通」には落とし穴がある。
「常識」「普通」はあくまでもタテマエとして便利に使うべきものである。
それを内面化して、「常識通り生きていれば楽♩」みたいな生き方をしていると、そういう人はとても不自然であり、上述の通り、本人は善意の塊のまま他人に迷惑をかけ続けることになる。

自分という存在の手綱を持つことのできない人は、おそらく古今東西ずっと存在している。
だがしかし、情報化社会は、そういう人でも「なんか傍目から見ると真っ当な社会生活送れてるっぽい」仮面をつけることを可能にした。
本来は周囲からやいのやいの言われて、本人もプライドがズタボロになりながらもがき成長するチャンスを、テクノロジーと情報が遮っている。
「他者に頭を下げて頼らせていただく」という成長の機会を奪っている。

母は、頭を下げることが苦手だ。
職場で少しでも気に入らないことがあると延々と愚痴を吐き、すぐにパートを辞めてしまった。
今は「もう一生働くことはしない」と宣言して、悠々自適なマダムライフを送っている。うちにはそんなにカネはないのだが。
それは裏を返せば、母のように未熟な人間でも、他人の手を借りずに生きることがギリギリ可能であるということも意味する。
便利な時代だからこそ、母の心は幼女のように傲慢で、少女のようにピュアなままだ。

母には若干の発達障害傾向があるように思う。
だが、おそらくはそういう傾向にある人というのは昔から一定数ずっといたはずである。
昔の時代の発達障害傾向のある人が、どのように自分の心と向き合ってきたのかは分からないが、少なくとも「私は一人でも立派に母親・妻としてやっていけるもん!」という傲慢さは持てなかったのではないだろうか?
強いものには弱く、弱いものには徹底的に強く出る、という傲慢さは、未熟さ以外の何者でもない。


長々書いたが、近代化というのは、ヒトが成長するための「枠」をたくさん奪ったように思う。
このような時代の中で、敢えて「他人に真に迷惑をかけない自立した人間になるための鍛錬」などする必要もない。
そうやってお互いに自分の心の中に発生した汚物を、自分以外の他者に投げつけ散らかす「万人の万人に対する闘争」の時代がついに来たのかもしれない。

「相手に自分の心の汚物を投げつけること」は、罪に問いようがない。
しかしながら、これは確実に社会が荒む。
誰もが人間関係を忌避するようになるし、まして恋人やら家族やらという親密な関係からは逃れたいと思うようになる。
親密になれば、より多くの汚物にダイレクトに晒されるということを、私たちは自分たちの家庭で身をもって知っている。

だから、私には、ただ心が荒んでいく未来しか見えない。
いますでに学校というシステムはかなり崩壊している。
親から心の汚物を投げつけられた子供が、苦しくて苦しくてクラスメイトに投げ散らかす。
投げつけられた罪のないクラスメイトは対人恐怖を抱き、学校に行けなくなる。
会社でも同じだ。
いい年こいて「親からの期待パラダイム」から抜けられない管理職が、理想の自分と現実の自分とのギャップという心の汚物を自分で処理できず、罪のない部下に投げつける。
過剰に働かせたり、過剰に叱りつけたり。
そうして汚物を投げつけれられた罪のない部下は対人恐怖を抱き、会社に行けなくなる。

本当はどこかで誰かが「心の汚物投げ合い競争」を辞めなければならない。
カウンセリングが浸透しているアメリカなどでは、きっとこういう経緯も踏まえて、「心の汚物は専門家と一緒に自分で処理できるようになろう」という意識が醸成されたのかもしれない。いや、これは憶測ですが。

少なくとも、「モラハラ」「パワハラ」「虐待」という言葉が広まったのはかなり大きな一歩でしょう。
「えーあいつ、学歴も肩書きも立派なのに、いい年こいて心の汚物を他人に投げつけるアホなの?うわー笑」
「えーあのママって、すごいセレブなインスタ投稿してるのに、子供に心の汚物投げつけてんの?最悪ー笑」
という価値観が醸成されることが、日本人の心の健康にとって、また真に幸せな家庭が増えることにとって重要だと思う。


昭和・平成という乱痴気騒ぎの長い近代を終えて、令和の世は少しずつ少しずつ清浄な価値観が流れてきつつあると思う。
あの頃盛んに言われた「キレる子供」「若者の非行」という言葉。
それは当時の大人たちの責任転嫁に他ならない。
当時の大人たち(の一部)が、自らの家庭において、善意と無意識のもとに、己の心の汚物を全力で子供達に投げつけてきた、その結果、一部の子供達の心が荒み尽くし、「キレて」「非行した」と私は思っている。

いま、子供たちが発しているSOSを、私たち責任のある世代は、まさに自分ごととしても受け止めるべきだろう。
やられて嫌だったことをしていないか?
本当にそれは「子供のせい」だけなのか?

それを「どうせ私が全部悪いんでしょ!!!!!!!こんなに頑張っているのに!!!!!!!!!!!!」という被害者意識の絶叫に逃げてもいけない。
いやー、実はここが一番難しいんですよね。
これは母の口癖なのですがね。
ヒトはそんなに強くない。だから脳はすぐに被害者意識に逃げ道を探してしまう。


だからね、あんまり自分に期待して、心に汚物を貯めちゃダメなんです。
冷静な判断ができなくなって、嫌なことがあると即、被害妄想に取り憑かれちゃうから。
繰り返しますが、この分断され尽くした現代社会では、ひとたび被害妄想に取り憑かれた人間は、誰かが宥めて諭して、徹夜で飲みに付き合って、元の道へ導いてくれるみたいなルートは存在していません。
ただ「めんどくせーやつ」として嫌われて遠巻きにされるだけ。
悪夢から醒めて心底反省した人間にしか、社会復帰のルートはないんです。
すっごい残酷な世界なんですよね。


この殺伐とした社会では、もう流れに任せて流れに乗って、お気楽にサーフィンしているくらいの生き方しかすることができない、と私は個人的に思っています。
今日も中年の娘に「心配」という名の汚物をぶつけ続けなれければ生きることもままならない老親を見ていると、私はこのことに気がつけて本当に良かったと思っています。


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