熊と青年

熊は森の中を歩いていました。今日も大忙しです。何しろ冬が近づいてきているので、その前にたくさんの食べ物を探して栄養を体に取り込まなければいけません。
熊は足元の大量の落ち葉の隙間から、木の実の匂いがしないかと鼻をとがらせ、踏み込んだ時に木の実の割れる音が鳴らないかと耳をそばだて、そして丸く固い触感が足の裏から伝わってこないかと神経を集中させました。

「あれ、おかしいな。」

しかし、昨日もおとといも歩き回っても、どこにも木の実は落ちていません。今年の夏は暑かったので、木は根っこに水や栄養を集中させて体を守り、子どもを産む気力を作れなかったのです。

熊の家には子熊も待っています。

「しかたない。川の方に行ってみよう。」




青年は 今 しっかりと 今までで一番大切なものを握っていました。さっきまで握りしめていた札束は両手の中にある一眼レフカメラと交換されました。その日は半年間バイトして貯めたお金で、人生で一番大きな買い物をした帰りでした。
滑らかな肌触りを何度も目と手で確かめてみる。その固く美しいものが自分の手の中にある。その堅実な実感が、彼を一瞬で有頂天にさせ、暖かいものがお腹から胸いっぱいに充満します。

「すげー」

すっかり冷え切った夜の帰り道でしたが、彼の手はずっと汗ばんでいました。

数日経っても、彼の鼓動はカメラに触れるたびに速まるばかりでした。手当たり次第にカメラを向けていましたが、今朝は早く起きて外に出かけました。

「すごい写真を撮りたい、撮ってみるぞ」

電車に乗り、2時間かけて湖にやってきました。人気のないボートに乗り、パチリ、パチリとシャッターを押していきます。色鮮やかな紅葉が水面に反射し、幻想的な風景です。ハラリと音もなく大きな手の形の葉っぱが水面に着地します。

「これは渾身の出来だ」

ちょうど葉が落ちる時、こちらにおいでおいでと手を招いているような形になりました。それは魅惑の世界へと誘い込んでいるようです。

「インスタにアップしてみよう。バズるかも」

青年は浮き足立ち、その日はスマホをベッドの隅に置いて眠りにつきました。翌朝、目覚めとともにスマホを覗き込んでみると、ものすごい数の通知がきています。

「やばい、すげー、俺すげー」

そうしてXを立ち上げると、確かに自分の撮った写真に大勢の人がリツィートしている。

彼が撮った写真の隅には細長く暗い影が写っていました。よくみると、それは濡れた犬のように痩せ細った熊でした。
ある人は熊の姿をあわれみ、ある人は地域住民への注意喚起をし、ある人は環境破壊をなげき、ある人は動物愛護活動を呼びかけました。小さな画面の中はたくさんの人の息づかいで入り乱れていました。

「俺の撮った写真が炎上してる、すげー」

青年は画面を覗きながら、そう思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?