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前に進む原動力には、憧れ?劣等感?渇き?が必要か。

前に進むための原動力として「渇き」をどのように持つかについて、もう何年も悩んでいる。

常に何かに渇いている人は外から見ていて前に進む推進力を感じるし、例えば仕事をする上でチーム内にそういう人がいると、その人の渇きと推進力が周りに伝染していくように思う。

そういう意味でも自分自身の中に常に渇きを持っておきたいと思うのだが、昔から何かに猛烈に渇く、という経験があまりないことに課題感を感じている。あったといえば中学から高校にかけてなぜか無性に海外に対する憧れが強く、いつか海外に行ってやるという気持ちだけは強く持っていた。

ここでいう乾きというのが自分自身、それ以外の言葉で上手く説明できないのだが、ただの憧れとも違う、劣等感の要素も含んだ、負けず嫌いみたいな要素も含んでいる。少し上の世代の人に言わせれば贅沢な悩みだな、恵まれて育ったんだなと言われてしまうのだろう。こういうメンタリティっていわゆるゆとり世代以降に多いんだろうかと思いながら、そんな雰囲気に埋もれてあーだこーだ書いている自分にも辟易してしまう。

ただ、これがある人とない人の差は、きっとどうしても埋められないんだろうなぁと、理屈とかではなく事実なんだろうなと思っている。これに関しては小手先の、それ以外の何かで埋められるものではない気がする。

じゃあどうやって自分の中にその乾きを生み出すか、自分の中心に持ってくるのかは残念ながらまだこれだという明確な答えは見つかっていない。今分かっていることは、こういった心理的な、内的な課題について考えるとき、自然とその原因や解決方法にも内的なものを求めがちだが、実際に行動を変えるのは案外、外的な環境が要因になるということがほとんどだと思っている。

何かを続ける、ということが苦手な自分が唯一15年近く続けられた水泳も、ある歳までは親に通わされるという半強制的な要因と、それ以降は一緒に練習する最高に楽しい仲間がいたのが続けられていた最大の理由だと、今ははっきりと分かる。現に卒業や受験などでその仲間が一斉にいなくなった少し後に、辛い練習に耐えられなくなり、水泳が楽しくなくなって辞めてしまった。

もうあとがないという、背水の陣といった状況に置かれると、「乾き」なんて婉曲な表現をする余裕もなくなるだろうし、そんな状況に置かれている人を外から見ると、あの人乾いてるな、と見えるのかもしれない。でもそれだけだと生きるのが辛くなりそうだなぁと思うのである。

最近は特にリモートワークも増え、人と顔を合わせる機会も自然と減ってしまっている人も多いのではないだろうか。そんな中なんとなく、最近渇いてないなぁと感じる人も少なからずいるんじゃないかと思う。たぶん、1人の時間が多い今だからこそ、ベクトルを自分に向けるのではなく、仲間に向ける時間や機会を増やすことや、無理をしてでもそういった環境に身を投じることを、現時点での自分の答えとしたい。いつかまたこの記事を振り返って、答え合わせをしてみたいと思う。

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