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私が好きなあの子は、私のことを決して好きにはならない理由を考える。トルストイ『人生論』との対話。

文字数 : 3,210

ドストエフスキーは昔読んだことがある気がしますが、よく覚えていませんし、そもそも私は文学少年ではありません。トルストイの戦争と平和やアンナ・カレーニナも読んだことはありません。

しかしなぜか今、全く唐突に偶然に、トルストイの人生論を読んでいます。人類愛を語る非暴力主義者の言葉は神秘的で理性的だと感じています。

トルストイを読みながら、今回は柄にも無く、愛について考えてみようと思います。

愛を考えた時に、真っ先に思い浮かぶのは恋愛です。私はどちらかと言えば奥手で、はっきりと断言できるくらいには恋愛が下手です。要は、いわゆる草食系なのです。

同じクラスのある女の子が好きで好きでたまらない情熱に、心がぎゅっとなる感触。なんとかあの子に振り向いてもらいたい。あなたと一緒にいたい。抑えきれない感情と、気がつけば唐突な行動を取っていた自分への後悔。あなたを独り占めしたいという儚い気持ちは、片思い。

僕があの子のことを考えていたとき、あの子は何を考えていたのでしょうか。それは知る由もないのですが、おそらく僕のことなどこれっぽっちも考えていやしないのです。僕があの子を好きだと思ったとき、僕はあの子の幸せではなくて、僕の幸せを考えていたのです。

僕のことを他の人よりも好きになって欲しいから、あの子を好きになったのです。だから、実はあの子の幸せなど考えていなかったのです。あの子はきっとこう言うでしょう。「あなたは私の何を知っているの?私が何を考えているか考えたこともないでしょうね。さようなら。」

人は自分の幸福を望むものです。しかし、恋愛の失敗が教えてくれるように、人はその矛盾に気が付いてしまいます。なぜならその幸せは、自己内で完結することはなく、他人に左右されてしまうからです。

自分は自分の幸せを願っていて、それでいて他人も自分の幸せを願ってくれるなんて、都合が良すぎるのです。もし自分が自分の幸せのために生きているのであれば、他人も彼ら自身の幸せのために生きていることになると思うべきです。そうすると、それは他人が自分を愛することはなく、したがって自分の幸せが実現することもない、と絶望的で論理的な回答が導き出されます。

トルストイは、こう言っていました。

選り好みのあらわれのはげしさは、動物的個我のエネルギーを示しているだけである。ある人々を他よりも好む情熱のはげしさは、誤って愛と呼ばれてはいるが、そんなものは、真の愛をその上につぎ木して実を結ばせることのできる、野生の若木でしかない。

トルストイ『人生論』(新潮文庫)翻訳 原卓也

私が私の幸せを望もうとすることは、それは人間的ではなく動物的なのだとトルストイは言っているのです。

動物的に生きるとは、なにか。それは生存することを目的として、そこに幸せ(と動物が感じることができればの話ですが)を追求することです。

一方で人間的に生きるとは、なにか。人間と動物の最も大きな違いは、人間は考えることができることです。つまり理性を持っているかどうか、もしくは理性を正しく使っているかどうか、ということです。

そして、人間が人生を生きるとは、動物的な生存の幸福を否定して、理性的に人生を全うすることにある、とトルストイは説きました。

真の生命の発現とは、動物的な個我が人間をおのれの幸福の方に引き寄せ、一方、理性的な意識は個人的な幸福の不可能さを示して、何か別の幸福を指示すると言うことにある。理性の法則に自己の動物的なものを従属させること、そこにこそわれわれの生命もあるのだ。人間の真の生命は、目に見える空間的、時間的運動に関わりなく、理性に従うことによって幸福を達成することである。俗衆や、思索せぬ人々は、人間の幸福を、動物的個我の幸福の中で理解している。

トルストイ『人生論』(新潮文庫)翻訳 原卓也

人間の場合、生存することは目的ではなく、それは自己の幸福を実現するための手段なのです。しかし、動物の場合は、生存することが目的であり手段と言えます。

しかし、このように人間的に生きることは、難しいことなのかもしれません。なぜなら、習慣が強烈な思い込みを作るからです。

やがて結婚し、家庭を持つと、動物的な生命の幸福を獲得しようという貪欲な気持は、家庭という口実によってさらに強化される。他人との闘争も激化し、もっぱら個人の幸福のためにのみ生命の習慣(惰性)が確立されてゆく。

トルストイ『人生論』(新潮文庫)翻訳 原卓也

人生の誤解を人々は信じているとトルストイは警告しているのです。個人の幸福は、理性ある人間には、それが実現しえないことがわかっているにもかかわらず、その矛盾から目を背け、動物的習慣に身体と精神を委ねて、ただ時を重ねているだけです。欲望と快楽と感情に身を任せているだけなのです。

だからと言って、どうすればよいのか分からないから、大きな人生の疑問を抱えたまま、それを見ないように隠しながら過ごしているのです。つまり個人的な生存を目的とする人生とは動物のそれと何らかわりなく、緩慢な時間の経過である、と言い切ってもいいのかもしれません。

では、どうすればよいのでしょうか。

トルストイは力強く、こう語っていました。

人が他者の幸福への志向のうちに自分の生命を認めさえすれば、この世界に全く別のものを見いだせるのだ。存在同士の闘争などという偶然的な現象の隣に、それらの存在同士のたえまない相互奉仕を、それなしには世界の存在も無意味となる奉仕を見いだすことができるのである。人間の生存の不幸は、人がそれぞれ個我であることから生ずるのではなく、人が自己の個我の生存を生命や幸福と認めることから生ずる。

トルストイ『人生論』(新潮文庫)翻訳 原卓也

他人の幸福を求めることは、理性的なことだと思います。なぜならそれは徳を求める心だからです。人間として正しくあろうとする気持ちは、明るく理性的な精神です。

これこそが愛だとトルストイは言っていました。つまり愛とは理性的であり、愛を持つのは人間だけなのです。

大学生のとき、私が尊敬しているとある先輩が、私にこう言ってくれました。

「恋愛とは、人生を学ぶことだ」

私がしてきた恋愛は、人間的な愛ではなく、実は動物的な何か別のものだったかもしれません。何も考えられなくなる盲目的な感情は、人間的ではなかったのです。

そうではなく相手のことを考え、相手の幸せを叶えてあげることが愛なのです。もし相手がそれに答えてくれれば、人はそれを奇跡と呼ぶのではないでしょうか。

愛の源、愛の根源は、ふつう想像されているような、理性をくもらせる愛の衝動ではなく、最も理性的で明るく、したがって、子供や理性的な人間に特有な、落ち着いた喜ばしい状態なのである。

トルストイ『人生論』(新潮文庫)翻訳 原卓也

自分勝手にならずに相手のことを考える姿勢は、人生を考えて見直すことでもあります。この意味で、恋愛はまさに人生のレッスンと言えるのかもしれません。

このように考えていけば、自分だけの幸福など追い求めるだけ虚しいことだ、と言い切ってもいいのかもしれません。そうするとやっと人間に戻れる気がするのです。

自分の幸福ばかりを望んでいては、思い通りにならないことにイライラしては、一喜一憂して感情的な人生を送ってしまいかねません。果たしてそれは人が生きているとは言えるのでしょうか。

だから、私は考えなければならないのです。生きるとは何かを、真面目に真剣に、逃げずに真正面から考えなければいけないのです。

人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である。

パスカル『パンセ』(中公文庫) 翻訳 前田陽一/由木康

恋愛の失敗を無駄にしないためにも。(決して失恋した訳ではなく、ただ過去を思い出して懐かしんでいるだけですので笑)

2020/07/11


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