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髪の毛一本、お絵かき、スプーン

ヨイチは夜道を歩いていた。時刻はすでに草木も眠る丑三つ時。時折四方から吹き込む風はさらし首の髪の毛一本一本もたんぽぽの綿毛も等しく揺らす。この町をこの時刻に出歩くのはおおよそヨイチ1人だけであった。夜回りという忌むべき仕事である。ヨイチは身寄りのない孤児であったが、こうして町での暮らしを営めているのも、夜回りという誰もが嫌がる勤めをかってでているからである。とはいえ、この勤めをする以外、ヨイチがこの町で暮らすすべがないだけなのであるが。

ヨイチが夜回りで行う仕事は3つある。そのうち2つは仕事というよりしてはならない禁忌である。禁忌その1は夜回り中に出会ったものと雑談をしてはいけないというもので、その2は夜回りを途中で中断してはならないというもの。最後の1つは名の通り仕事で、納品物を指す。それは、お上に夜回りしている事実を伝えるために夜回りの報告書を奉行所に提出すること。何よりこれが最も重要で唯一の仕事である。この夜回りの報告書によって、奉行所は町の自治機能が正当であるかどうかを判断する。念のために言っておくが、内容は関係ない、提出されていることが、最も重要なのだ。なので、ヨイチはここのところ報告書には何も記載したことがなかった。

はじめの頃こそありつけた仕事に熱心に取り組んでいたが、下手なことを書けば寝不足の状態で奉行所に呼び出され事細かな詳細を説明することとなる。単純に、仕事が増える。かつて迷い猫の報告をした際に、犬好きの検校殿に「迷い犬は迷い猫の倍いるはずなのになぜ迷い猫のみの報告をするのだ、怪しい」との虚言的意見を賜り、危うく簡素な縄文様で市中に晒されそうになった。それ以来、ヨイチはたとえ夜回り中に何があっても報告書に記載することなく勤めた。

そうしたヨイチの“仕事っぷり”は密かに噂され、ヨイチの“仕事“をありがたがる連中が現れた。ある連中は夜逃げ、殺し、心中、盗みなどの悪事をスムーズに遂行するためにヨイチを使った。ヨイチは立派に仕事を成し遂げ、その度に連中からは報酬を貰えた。

あくまで中立だったヨイチは岡っ引き連中からも重宝された。ヨイチは真面目に仕事をこなした。報告書に記載された場合、それは夜回り役の手柄となる。立身出世を目論む岡っ引き連中は自らの手柄を得るためにヨイチと共に夜回りをするようになった。こうして悪党連中と岡っ引き連中はただ真摯に仕事をこなすヨイチを台風の目として、攻防戦を繰り広げた。ヨイチはいくら岡っ引きから求められても生真面目に奉行所より定められたルートに沿ってしか夜回りをしなかった。いつしか岡っ引きに扮して関所を抜けた脱藩浪士も現れた。そんな自分の周りで吹き荒れるヘクトパスカルをヨイチはただ傍観するのみであった。

ただ1つ気がかりがあるとすれば、ヨイチの唯一の楽しみの時間を削るよりほかなかったことである。ヨイチはある女郎に恋をしていた。遊郭はもとより夜回りの正式なルートに含まれていない。なぜなら遊郭には本来ならば風営法を庶民に適応し、取締る側の検校殿の楼閣だったからである(検校殿は夜は猫好きになるのである)。そのため、遊郭だけは特別取締特区として奉行所の夜回り管轄となっていた。ヨイチが夜回りを終え、遊郭前に設置された奉行派出所(為政者のための遊郭として機能していた)に報告書を提出する。もちろんヨイチは内部で行われている“やんごとなきお勤め“に水を差さないようにする。

ヨイチが夜回りを始めた頃のある夜、奉行派出所から1人の女郎が出てきた。女郎は気さくにヨイチに話しかけた。これは本来、業務違反(夜回り中に雑談をしてはいけない)であるが、ヨイチの仕事は報告書を提出すればその時点で完了となるので、ヨイチはその女郎と報告書を提出したのちに話すようになった。女郎は類まれな野心家であり、頭もよく、どこから仕入れてきたのか異国の品をヨイチに見せびらかしては夢を語ってくれた。名を聞くと、“狂骨“(きょうこつ)と名乗った。


「これはね、スプーンと言って、異国じゃあ汁をすすったり箸の代わりに使うのさ」

「それじゃこれは、食うためのものなのかい?手鏡じゃねぇのかい」

「あんたの姿はこの中に収まるのかい?これじゃお歯黒も満足に塗れねぇよ」

「おいらだったらこの卵みてぇな手鏡で十分収まるかもしれねぇよ」

「しけてるね、私はね、このスプーンでここを抜け出してやるのさ」

「抜け出す?」

「あぁそうさ。ヘっ果て切った検校殿みてぇなツラしてるよ。いいかい、これはね、私にとっちゃ船さ、私はこの船に乗って、近いうちにここを抜け出して、塾を開くのさ。へっ何もさっぱりみたいだね。とにかく私はこのスプーンに乗って逃げる、そしてその先でひっそりと塾を開く。その塾で、売られそうな子を引き取ってね、私みたいな賢い子たちを教育するのさ。そうすれば知識をこんなことじゃなくて真っ当なことに使える。知識はもっと広い海へと漕ぎ出せるからね。」

「おいらはそうした夢がもてない、おいらはずっとこのままでも嫌だけど、ずっとこのままの方がいいんじゃないかと思えてくるんだ。おいらは最近いいもんも悪いもんもみてるけど、どちらのやつも夢を見てやがる。愛し合って心中をする奴らも、娘を売らないために盗みをする奴らも、風向きが悪けりゃ死に首を晒すことになる。いいもんたちは偉くなることに夢を持って、自分で悪党を育ててやがる奴もいる、庶民の生活が苦しい方が悪党が増えるからな。そんな奴らも死にたくねぇ悪党にかかれば命から歯すらも持ってかれちまう。どっちの夢の持ち方もおいらには絵空言に聞こえる。ガキが土に棒で描くお絵かきと一緒さ。風のひと吹きで消え去っちまう。」

「馬鹿だね、生きながら夢を見るんじゃねぇよ、死にながら見るのさ夢は。」

ヨイチは狂骨の言っていることをほとんど理解できなかったが、そのうち狂骨を慕うようになった。生まれにより卑しい身分として生きてきたヨイチにとって、人生とは夜回りをするごとく反復するために反復するようなものであった。狂骨が果たしていくらで売られ、あといくらで自由の身となれるのか想像もつかなかった。ヨイチは一度だけ狂骨に“授業料として”お金を渡そうとしたことがあるが、その時だけ狂骨は四谷怪談のお岩のごとき視線をヨイチに突き刺した。それ以来、ヨイチは狂骨の詮索はやめて、ただ狂骨が朝方まで話し続ける最新の学問の話や狂骨の夢を、薄らまぶたの中で夢心地で聴いていた。

しかし、岡っ引きが夜回りに同行するようになって以来、狂骨の授業を受けることが満足にできなくなっていた。果たして狂骨は船出ができているのだろうか。今頃スプーンに乗って牡丹の着物をたなびかせているのだろうか。そうしたことを考えているうちに自分の姿が本当にスプーンの中に収まるような気がしてきた。

ヨイチはよくわからないなりに自分がうまく死ねているかどうかを考えることにした。風がさらし首の髪の毛一本を撫ぜるときに、ヨイチの髪も同じように揺れていた。



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