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TureDure 19 : 演劇的手法の中で何を学ぶのか

新年あけましておめでとうございます。
昨年から始めたこのパルプ随想録「TureDure」(とぅれどぅれ)ですが、いよいよ19回となりました。昨年最も皆様に読んでいただいたのは「TureDure 5 : 満員電車論」でした。ここでもテーマとなっている「諦めの学習」という点について、日々その感覚が強まってきます。

さて、新年初の「TureDure」は演劇教育について偏り満載、有る事無い事好き勝手自由連想スペクトラムをお送りしたいと思います。年末に研究室の先輩に誘われて『なってみる学びー演劇的手法で変わる授業と学校』という書籍の読書会に参加したのがきっかけでした。著者の藤原由香里さん、渡辺貴裕さんにも直接質問できる機会もいただき、大変刺激的な年末でした。

さて、本書の内容を直接的に扱うわけではないのですが、とある方とお話ししていた内容について書いていこうと思います。

「なってみる」ことから始める学び

一斉教授型の授業と演劇的手法を取り入れた授業の大きな違いの1つは、生徒が役を演じる、すなわち「なってみる」という過程が演劇的手法を用いた授業において経るという点です。ちなみに私は企業研修の仕事をしており、その中でよく耳にする「ロールプレイ」という手法においてもこの「なってみる」が見られる一方で、その構造は「なってみる」というより「やる」に近い。すなわち、すでに正解とされるふるまいが想定されており、受講者はその正解を身体的に当てるというものです。いくらよりより営業とは何かを考えていたとしても、想定された正解的ふるまいがクリアできなければならない、非常に合理的な構造になっています。考えながらやってはダメで、しっかりと1つ1つのふるまいについて理解をした上で、かつ、的確に実行できなくてはなりません。

一方「なってみる」こと想定されているのは、表現と理解が相互循環すること、すなわち「理解してからやる」のではなく、「やりながら理解が進む」という状況です。架空の世界を想像しながら役が置かれている状況を描くことで、理解が深まります。こうしたひとまず「なってみる」ことから学びを始めようとする態度が演劇的手法には見受けられます。

「深い理解」とはなんだろう

一方で、なぜ「なってみる」ことで「理解が深まる」とはどういうことでしょうか?また、そもそもなぜ「なってみる」ことで「理解が深まる」のでしょうか?とある方と話していた内容はこの点についてなのです。確かに言われてみれば「深い理解」ってなんなのでしょうか?例えば、「ごんぎつね」の「ごん」になってみることで「ごんぎつね」の理解が深まるとすれば、それは何を理解したことになるんでしょうか?

これは裏を返せば、純粋に作品を読むことで得られる理解と、なってみる過程を経ることで得られる理解とにどのような違いがあるのかということも問うていることにもなるかもしれません。

エモーションに含まれたインフォメーション

ここで私の見方を提示すると、「なってみる」ことで得られるのはエモーショナル・インフォメーション(感情の情報)ではないか、です。例えばごんが兵十の母親の葬列を目撃するシーンを演じてみた時、ごんがどんなことを考えるのか、どんな感情になるのかを体感することができます。これは物語を媒介して私たちは「後悔」という感情を学びます。このように感情そのものを学ぶということもありますが、同時に「どういう時に後悔するのか」という感情に付随する情報も学ぶことができるのではないか。

ここで少し余談にはなりますが、私たちが持つ感情というのは歴史的に構築されているという観点が近年盛り上がりを見せています。それをアフェクト理論と呼びますが、この視点から文学作品を分析してみると、ある対象が嫌悪という感情を引き起こすようになったのは歴史的に分析が可能だということが分かってきました。
何を醜い/美しいと感じるか、何を悲しい/嬉しいと感じるか、というのは社会的・歴史的に作られ、世代を伝って継承されているのです。そしてその伝達手段の1つとして「物語」という手段を採用してきたのではないかと私は妄想します。

エモーショナル・インフォメーションに戻りましょう(ちなみにこの言葉は僕がノリで作った言葉ですので、そういった言葉がすでに存在するかどうかも知らずに使っていますので要注意です)。私たちは物語を通して感情とともにその感情が必要になる社会的状況を学ぶことができる。そのエモーショナル・インフォメーションを効果的に学ぶのが「なってみる」という活動であり、この活動が加わることで論理的な読解と合わせて理解が深まるのではないか。

今回は演劇的手法を用いた授業に起こる「深い理解」について書いてみました。これが国語だけでなく、社会や理科や算数などにも当てはまるのかどうかぜひお話しできればと思いますし、おそらくこの議論には感情についてもより慎重な検討が必要ですし、また、「経験するとはどういうことか」という問題も、「身体感覚」や「演劇」に関する議論もまだまだ必要だと思われます。実際に経験していないことも経験したかのように感じるのはなぜかというようなことも非常に興味あります。

とは言いつつ、妄想全開で話しているので、ここから議論の出発点にできれば良いなと思っているので、よければカフェなどでお話ししましょう。それでは、皆様、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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