ゲームは国境と垣根を超える。ただし、人々がそれを許せば。

見出しに含まれるゲームのネタバレを含みます。

遊んだゲームの半分以上は海外製の作品

ゲームが好きで、気が向いた時にいろいろチェックしています。
その中の半分以上は海外の作品であることに気づきました。
せっかくなので、海外製のゲームに興味を持った過程とプレイ遍歴を振り返ってみようと思います。

多国籍な楽曲の多い「DEEMO」とRayark社の音ゲー

ゲームをたくさん遊ぶようになったきっかけとなった作品がDEEMOのような気がします。PS Vitaに移植されたものを触ったのが初めての音楽ゲームでした。
ピアノを題材とした音楽ゲームですが、ピアノのみで構成された楽曲から、ジャズ、クラシック、ポップ、ダブステップなど多様な楽曲が収録されています。
ジャンルだけでなく作曲者の出自も多様で、台湾、香港、韓国、インドネシアなど様々な地域の作曲者から楽曲提供がされています。
例えば、収録曲の"I race the dawn"は、オーストラリアの作曲者とアメリア人の作詞者、日本人のボーカリストの合作です。

DEEMOの攻略Wikiを見て、作曲者の情報や音楽ゲームにおける位置づけを知るようになりました。一時期、Twitterでも作曲者をフォローしていました。
また、4GamersやAUTOMATONといったゲーマー向けニュースサイトを見るようになり、その中で興味の幅が広がったように思います。

DEEMOにハマるにつれ、他の音ゲーにも手を出し始めました。
DEEMOと同じRayark社のCYTUS/CYTUSⅡや、Rayark社と同じ台湾に拠点をおくNoxy Game社のLanotaなど、気になったものに手を出すようになりました。

地政学がゲームに与えた影響

そんな中、香港で民主化を求めるデモと激しい弾圧がニュースになりました。

この政治的な出来事は、台湾のRayark社にも大きな影響を与えました。
Rayark社の社員であった作曲者のIceさんが、プライベートで香港のデモを支持する内容を暗示する楽曲を公開し、それに対してRayark社と取引のある中国企業が懸念を示し、彼は退職することになりました。

地政学的緊張がゲームに与える影響を目の当たりにし、内心、漠然と不安な気持ちで情報収集をしていました。自分の好きなものが政治的影響を受けて抑圧されるという経験を初めてしました。
先述のゲーマー向けのニュースサイトも、ゲーマーやゲーム制作者がどのようにこの出来事と向き合っているかを報道していたことも印象に残りました。
ゲーマーであっても人間である以上、政治的な出来事や社会の影響を受けるというのは当然のことですが、むしろゲーマー特有の「受け方」が存在するのかもしれない。そんなことを意識させられたように思います。

不寛容と音楽の可能性を描く「陽春白雪」

その後もスマホ音ゲーをいろいろ漁ってはハマり、ハマっては飽きて、飽きては再燃し、ということを繰り返していました。いわゆるエンジョイ勢というやつで、低難易度の譜面でも理論値を取れたことはほとんどなく、フルコンボができたら御の字という感じで、ゆるく続けていました。
その中でも、同じく台湾のRNOVA Studio社(現:Dusklight Games社)の音楽ゲーム「陽春白雪」には、台湾の少数民族パイワン族の民族音楽が収録されているのが印象的でした。

少数民族のうち、パイワン族は3番目に大きいグループだそうで、蔡英文総統もパイワン族の末裔として知られています。
ストーリーにも、パイワン族の少女・陽が登場します。
周囲に内緒で一人で歌のオーディションを受けに行ったところ、募集要項に言語の指定がなかったにも関わらず、一つ前の参加者のベトナム人の少女がベトナム語の歌を歌ったことで失格になるのを目の当たりにします。自身も抗議の上でパイワン族の歌を歌って失格になるものの、別のストリートパフォーマンスの選考会に出場することになります。

漢詩を題材にした楽曲が多数収録されている一方で、民族音楽や日本語の楽曲、他の音ゲーとのコラボ曲も収録されていて、音楽が持つ時代と国境を超える性質を象徴する内容です。
ストーリーはこのほか、乱世を生きた詩人と現代の人々が夢の中で出会い、互いに影響を受け合う内容です。
先述した陽の物語は、戦乱の凄惨さを詩歌に残し状況の改善を願う杜甫と、現代で音楽を楽しむ陽たちの多幸感の対比がずっと心に残っています。

Nintendo Switchの購入とインディーゲームへの興味

スマホ音ゲー中心だった状況が変わったのはNintendo Switchを購入してからでした。コロナ禍で外出できない分、家で楽しめる娯楽を求めてNintendo Switchを買いました。
「アンリアルライフ」にハマり、過去にプレイしていた「UNDERTALE」も含めてインディーゲームという区分があることを知り、少しずつインディーゲームで遊ぶようになっていきました。

アクション要素で躓いている「Spiritfarer」

居場所を求める「Ikenfell」

そんな中で見つけた「Ikenfell」が、クィアの人(セクシャルマイノリティに属する人)から高い評価を得ていると知ったのは、中盤でバトルに行き詰って攻略情報を求めて検索した時でした。
失踪した姉を探して魔法学園にやってきた魔法が使えない妹のマリットが主人公のタクティカルRPGです。その時点ではそうした要素を感じさせる描写はなく、どう絡んでくるのか気になりながら進めていきました。
核心に近づくにつれ明らかになる姉の行動と、いっしょに姉を探すことになった仲間たちの関係が衝撃的でした。

序盤から。この時点ではこんな話だと想像ができなかった

このゲームのポイントはセクシュアルマイノリティを特別視せず、全ての登場人物が自然体で生活を送っていることです。だからこそ、セクシュアルマイノリティの人が出てくることを事前に知っていても、それがどう話の動き方に影響するのか全く予測がつかなかったのだと思います。

居場所を去るまでを描いた準自伝「No Longer Home」

Ikenfellとなんとなく対照的に思い出されるのが「No Longer Home」です。
Ikenfellが自然体でいられる理想に基づく出会いと自己肯定の物語であるのに対して、No Longer Homeは滞在資格がなくなり追い出された実話を基にした別れの物語だからです。

  • ADHDグレーゾーン

  • ジェンダーロール

  • 人種差別や偏見

  • ジェントリフィケーション、貧困地区や郊外の再開発に伴う家賃高騰、立ち退き

  • 性別違和をカミングアウトできる相手が限られていること

といった生きづらさと帰属できる場所の無さが描かれています。
直接的に刺激の強い描写が今のところないのですが、なんとなく向き合う自信がなく、プレイ途中のまま置いてあります。

社会問題に翻弄される二人の関係を描く
ストーリーは気になるけど、これだけてんこもりだと腰が重い…でも気になる。

インドネシアに触れる「A Space for the Unbound.心に咲く花」

もう一つSwitchを買ってから見つけたゲームがこれです。
作品ゆかりの地をめぐるいわゆる「聖地巡礼」の文化に影響を受け、インドネシアの製作者が自身の故郷をノスタルジーあふれるビジュアルで描いています。

それより前にこの制作スタジオのゲーム「When the past was around」で遊んでいたこともあり、ここのアドベンチャーゲームの新作が出たら絶対に買おうと思っていました。
そんな中でゲーム開発者向け助成金をパブリッシャーが詐取したと訴えがあり、発売が危ぶまれました。最終的に解決したのですが、翻訳や流通を担当するパブリッシャーに焦点が当たったことで、「ゲームは出版物である」ということを強く意識させられました。

作中で食べているバクソがやたら美味しそうに見えたり。
インドネシアに対してイスラムのイメージが無かった

震災と日韓関係を連想させる「Rakuen」

最近プレイした「Rakuen」にも、他のゲームにはない特徴的な描写がありました。入院中の少年がママから読み聞かせてもらっていた絵本の世界に入り込み、冒険をするお使い系アドベンチャーゲーム。
病院と異世界を往来しながら、他の入院患者の困りごとを解決していくストーリーなのですが、その中にこんなエピソードがありました。(以下、描写から読み取れることの要約)
東日本大震災の当日会う約束をしていた韓国人と日本人のカップル。3月11日に2人が初めて出会った場所(東北)に行く約束をしていたが、東日本大震災が発生。
日本で一人ウィンストンさんを待っていたジェンマさんが、震災報道を受けて先に着いていたのかもしれないウィンストンさんに会うため、3月15日に東北入りしたが、両親にバレて手間取ったウィンストンさんはそこにおらず、そのまま被災し津波に呑まれた(作中の新聞記事「町は、わずか数分のうちに9メートルのつなみにのまれた。」)。
その後、搬送先の病院では治療が困難であるとされ転院を図るが、厳しい状況の中で移送したため植物状態に(「酸素マスク濃度21%」「あさまでもたない」のくだり)。
ジェンマさんに会うことができなかったウィンストンさんは、誤解を与えてしまったことをずっと気にしている。

このゲームの日本語および韓国語ローカライズが出たのが今年の3月で、時季も含めてかなり踏み込んだものを感じました。

ゲームの在り方の変化を感じて

ゲームと言えば娯楽の一種です。娯楽には政治的なメッセージや自伝的要素は、本来なじみにくいものだと思います。
楽しむことを目的としたものに、切実な動機や実存的な課題が絡むことの多いものを興覚めにならないように盛り込むのは、至難の業なのではないかと思います。

しかし、最近はアート、自己表現、ソフトパワーとしての要素を含んだ作品が増えているように思います。
先述のNo Longer Homeも自伝的要素が作品の核になっています。
また、制作者がインタビューに応えて開発動機を語る記事が掲載されたり、SNSで制作過程を公開したりするなど、制作者の露出の機会も増えているように思います。
開発者がクィアやアライであることを明かすことも増えました。先述のIkenfellの開発者もLGBTQ+コミュニティから影響を受けたことを示唆しています。未プレイの作品ながら気になっている「A YEAR OF SPRINGS」もまたクィアの物語として有名です。

政治的な目的や地政学的情勢の発信のためにゲームを活用する動きも見かけるようになりました。
先述の香港情勢を踏まえたゲーム内での活動などです。最近では、ウクライナの戦争被害を伝える目的で制作されたゲームがあります。

政治や社会の動きは、自己表現の核にもなりうる

自分の属性や住んでいる場所を掘り下げて作られたゲーム、アートや自己表現としてのゲーム、地政学に翻弄されるゲーム開発者の状況。単なる娯楽としてはなじみにくいテーマが、ゲームという媒体では幾分か成立しやすいようです。
プレイヤーが登場人物を操作し物語の世界に介入するという側面が、語ることを容易にするのかもしれません。例えば、ロールプレイングゲームのロールプレイングを直訳すると役割演技になります。主人公になりきって、あるいは俯瞰視点で主人公の立場を仮想体験することになります。
ゲーム内でデモ活動や政治的要素を含むMOD開発が行われているように、タイトルによってはプレイヤー側も作者が設定した世界観と選択肢の中で自分を表現することができます。

いろいろなゲームを遊んだり、情報を集めたりしているうちに、ある種のソフトパワーのようなものをゲームの中に感じることが増えました。
ソフトパワーという言葉は、ゲームのブランドを政治的な利害のために利用するようなネガティブな意味を想像してしまいます。

しかし、ゲームがきっかけで制作者の地域や属性に関心が生まれることは悪いことではないと思いたいと、最近は感じています。
ゲームを通じて政治的な利害を離れた交流が行われたり、相手の生活を思いやる機会が生まれたりしているように思うからです。

この記事を読んだときに、記事内で言及されている「観光」の在り方は、「ゲーム」に置き換えても一部成立し、属地的なものに限らず人々の属性全般に対して言えるのではないか、と思いました。
つまり、ゲームを通じて異国の文化や他者の生活に興味を抱く。ゲームを通じて自分とは異なる属性を持つ人々の存在を知る。ゲームを通じて垣根を超えた親近感が生まれる。そのことによって、海外の出来事や時事的な動きが少しだけ他人事ではなくなっていく。

ポリコレ(政治的正しさ)という言葉が定着し、政治や社会の動きが表現に対する制約として認識されることが多いように思います。
しかし他方で、それらが自己表現の核となり、新しい発想の作品がたくさん生まれているようにも思います。

ゲームは娯楽か、アートか、もっと別のデジタル出版物として捉えるべきか。いずれにせよ、プレイした海外のインディーゲームを見ていると、「プレイヤーも作者も人間、人間が人間のために人間に向けて作っているものなんだな」ということを考えさせられます。

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