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新東京大学物語第0章:前編

※ いつものようにベンチャーキャピタルに関連する記事ではなく(実は、こっそり関係はしているのですが)。東大を舞台にした青春小説になります。実験的に公開。すでに全編書き上げているので、興味がある人がいらっしゃいましたら、ご連絡いただけると嬉しいです!!

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「よう、東大生、連絡遅かったじゃん?」
 電話越しに弟が言った言葉の意味を理解するまで5秒ほど。3月中旬の空気は、まだ冬の気配を残しており、携帯電話にあてる耳は、確実な冷気を感じていた。
「合格してたってこと?」
「そうだよ。おめでとう」
「マジか」


 その日は、東京大学理科二類後期試験の合格発表の日だった。本当だったら本郷三丁目の掲示板まで見に行けばよかったのだけれども。高校の同級生が、バンドのライブをよりにもよって合格発表の日にやるというので。不合格で落ち込んだままライブを聴くのは嫌だと思い、合格発表は見に行かず、こうしてライブの帰りに自宅に電話をして合否を確認したのだった。


 一言発するのが精いっぱいだった。受け入れ難い現実ではなく、待ち望んでいた現実。どちらも身体に馴染むのには時間が必要だった。おろし立ての靴が靴擦れを起こすみたいに。心は、いつも現実とは離れた距離に存在し続けていた。
「母さんにかわってくれる?」
「おう、ちょっと待ってて」
 母親が電話に出るまでのほんの数秒、周囲を見渡すと、冬の気配が春の気配へと変わりつつあったことに気付いた。


 恵比寿から渋谷に向けて続く隠れ路地は、今日もオシャレなカフェと雑貨屋さんとで賑わっていて。大学生や20代の社会人と思われる若者が、ビールやカクテルを片手に、男女関係なく、騒がしくも和やかに夜の街と渋谷を彩っていた。そこには、若さという勢いがあり、希望という名の発散が繰り返されていた。
「自分も、この中に入れるのか」
もちろん、まだ19歳でアルバイトやら何やらでどれくらい稼げばこういうお店に入り、雰囲気に馴染めるのか想像もつかなかったけれども。自分が彩りの1つになれることに、少しだけ現実感を持てるようになった。


 母親には、合格できて良かったということと、これから帰るということを伝えると電話を切った。冷たい風は、ダウンジャケットの上からでも身体を冷やそうとしてきたが。むしろ冷やしてくれるくらいが丁度よかった。心は、熱を帯び、血液を通して、全身を激しく沸騰させた。駅までどうやって辿り着いたのか分からないくらい、頭は興奮し続けていた。
 JR渋谷駅のホームに到着しても、すぐに電車に乗りこむ気分にはなれなかった。努力が報われたことに違いはなかった一方、自分が合格できたことはたまたまだということも同時に分析した。
 浪人を通して得た最大の学びは、自分にいい意味で限界を設けたことだった。車やロケットが安全装置を作動させるみたいに。それは、自分が壊れないために設けるものではなく、長く続けるために勇気をもって取り付けたものだった。


 現役で合格をしていったスーパー高校生、さらには浪人中に開花する優秀な浪人生、彼ら彼女らと自分とを比較して、自分には勝てる要素は何1つなかった。人生に対して、短期戦ではなく長期戦で臨む覚悟。高校生活を切り取ってみると、自分は明らかに後続組だった。
 その覚悟が、今回はたまたま機能したのだろう。喜びを自制したい頭と、興奮を抑えきれない身体との間で、バランスを取ることが難しかった。その間、目の前の山手線は5回程渋谷駅に到着し、恵比寿に向かって走り去っていった。その間、目の前を数十人が降車と乗車を繰り返し、車両はその役目を果たし続けた。いつも通りの渋谷駅の光景だった。
 脳と身体との摩擦熱が冷めるまでに、およそ20分を要した。純粋に合格を喜ぶ気持ちが芽生え始めたのを確認して、山手線に乗り込んだ。車両の扉に寄りかかると、何とも不思議だった。大学生の、しかも東京大学の学生になれる自分と、浪人生だった頃の自分。何がその差を分けるのか、良く分からなかった。純粋に努力の結果だと思えれば良かったのだけれども。努力以外の何かがそこに作用した気がしてならなかった。政府の秘密文書か何かみたいに、その何かは永遠に明らかにされないままなのだろうけれども。電車は、間もなく目黒に到着した。

ーーー


 合格発表から入学までの期間は、わずか1週間しかなく。書類の提出から準備から手続きまで気の抜けない日々が続いた。それこそ、
手慣れた職人が、工芸品の納期を気にするように。書類の提出スケジュールは、1日刻みだった。

健康診断は、その中の気の抜けないイベントの1つだった。大学で健康診断をしてくれるという何ともありがたいイベントの1つであったのだけれども。午後2時集合というので、10分前には到着するよう早めに本郷三丁目に向かった。


 それなりに早く行ったはずなのに、集合場所である安田講堂前は、すでに列が20人くらい並んでいて。いつもであれば、列が無くなるまでどこかで時間を潰したいところだったのだけれども。午後の予定に間に合わせるために、仕方なく列に並ぶことにした。行列に並ぶのなんて、昔、修学旅行で行ったディズニーランド以来だったかもしれない。
 安田講堂は、東京大学の建築物の中でも特に有名なものらしい。戦争に向かう兵隊がここを出発地点にしたとか、学生運動の最後の抵抗の場になったとか。加えて、健康診断の時くらいしか中に入れないとのこと。そんなありがたみを今日感じ取れるとはとうてい思えないな。そんな皮肉めいたことを考えていた時だった。


「あの、この列って健康診断の列ですよね?」


 振り返ると、ツインテ―ルの女性が立っていた。身長にして160センチ前後、チノパンなのかジーンズなのか判別がつかない、やや青みがかったボトムスに黒のタートルネックセーター、そして白のニューバランスのスニーカーを履いていた。特にこだわりがあるわけではなく、機動性を意識した服装だった。


「はい、そうだと思います。僕が今のところの最後尾かと」
「ありがとうございます」


 少し擦れていて低い声は、色気があった。水墨画の濃淡のように、繊細で調整されているような。もちろん、彼女は自然体で発声していたはずなのだけれども。
 時間にして、30秒ほどだろうか。しばらく沈黙があった。暇なときに時間を潰せるよう、星新一のショートシートをカバンに常備していて。その本を取り出し、読むか少し迷った後、取り出した文庫を、そのまま着ていた大きめのパーカーのポケットに入れた。カンガルーの子供のように、文庫本はゆったりと収納された。顔を出さない形で。


「後期で合格すると、嬉しい一方で慌ただしくて大変だよね」


 ツインテ―ルの彼女は、最初びっくりしたようだったが、表情はすぐに柔らかくなり、口角が自然に斜め上まで上昇した。笑顔測定機器なるものがあったら、8割上昇といったところか。
良く見ると、彼女の目元の涙袋は、彼女の黒く大きな瞳をより一層際立たせていた。それこそ、美しさの目印だといわんばかりに。『ここが美しさの原点です』はっきりと主張する形で。
「うん、本当に。私も引越に手続きにいっぱいいっぱいで。。。。」
「そっか。僕は東京が実家だから、まだ楽な方なのかも」
「地方出身者は大変なんですよ」
 彼女が、会話に乗り気なのかそうでないのか、まだつかめていなかった。スポーツの試合が、概ね、序盤が混戦になるように。羊飼いが羊の集団を統制するように、流れを調整する必要があった。自然な形で。警戒感を解くようにして。
「全然話変わっちゃうけど、名前は何て?」
「石影桜って言います。私も聞いていいですか?」
「僕は、上杉昇っていいます。同じ年に入学する同級生で、初めて名前を聞くのが石影さんになりました」
「私も、上杉くんが初めて聞く同級生の名前」
 石影桜という名前は、直感的に素敵な名前だと感じさせるのと同時に、何か危うさや儚さを感じさせる名前だった。咲くとか、散るとか、そういう動詞とは異なる、人の心に憑りついて離れない何か。残念ながら、僕のボキャブラリーでは説明しきれないのだけれども。


 いつの間にか、彼女の口調はですます調から転調していた。ハ長調でもヘ短調でもない、感情を読み取りにくいリズムへ。
「ところで」
「はい?」
「上杉くんって東京の人なんだろうなって、感じ」
「え、なんで?顔に東京出身って書いているわけでもないのに」
「上杉くんって、東京の匂いがする」
「匂い?」
「うん。洗練された匂い。有名ブランドの青い香水みたいに。どんな香りなのか、私も嗅いだことないんだけどね。服装とかも含めて東京って感じ」
「例えば、このパーカーとかってこと?」
「そう。その大きめのパーカーとか。東京のスタバとかオシャレな街とかディズニーランドとか、そういう空気をたくさん吸ってきた感じがする」
 彼女は、この時、初めて僕の瞳を真っすぐに見つめた。顕微鏡が、対象物の構造を微細に検証するように。白目と黒目の比率、瞳の大きさ、さらにはその奥にある感情を読み取るようにして。彼女のツインテ―ルは、気がつけば、着ていた黒のニットにほぼ同化していた。残されたものは、色白の肌に涙袋の膨らみに、定規で描いたような視線だった。


「そうかな」


 そう、返事をするのが精いっぱいだった。

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