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カムイの秋


ピリリリリ。

携帯が鳴った、着信は母親から。

何事かと通話ボタンを押す。

「もしもし励起?相変わらず山登っているの?」

唐突に山の話をし出す母。

ある日曜日の午後、家でマッタリしている時だった。


現状床に寝転がっている私の身を、まるで山中にいるかのごとく案じ出す母。

母の会話は、唐突に始まり止めどなく、そして終始内容に一貫性がない。

だから、母との電話でのやり取りの際、いつも結局用件はなんだったのか、忘れてしまうことが多々あった。

そんな母だが、今回の要件は、ずばりこれだった。

「今度また一緒に山登りに行かない?」

どうやら、私のせいで両親もすっかり山登りブームが再燃してしまったようであった。


2008年の8月、私は両親を誘って一緒に大雪山を縦走した。

あの、感動の二ペソツ登山のすぐ後である。

国道273号線から分岐する大雪山観光道路の終点、銀泉台からお花畑が有名な赤岳(2,078m)に登り、小泉岳(2,158m)を通過して、白雲岳(2,229m)へと足を延ばした。

そこから遡ること二年前の8月と10月、父親は心臓の手術を経験した。

最初はカテーテル、そして二度目は胸部を切開し心臓の一部を切除、さらに血管を太ももから移植する大手術となった。

私が最初に父の体調の異変を感じたのは、この年の春。

当時私が住んでいた江別のおんぼろ一軒家(もちろん借家)に父親が遊びに来た時のこと。

荒れた庭を一緒に開墾しようという話になり、張り切った親父は剣先スコップで庭を掘り返しはじめた。

いつもなら無尽蔵のスタミナで作業を続ける父だったが、この日はしばらくすると「疲れた」「なんか苦しいな」と胸のあたりを押さえ座り込むシーンを何度も目にした。

らしくないな、と思った。

そして、また別の日、一緒にテニスをしていたときのこと。

はじまってすぐに息を切らし、胸のあたりを押さえながら、「ちょっと疲れてるみたいだから、今日はやめよう」と言われた。

いつもと様子が違う親父に、なんだか戸惑いと不安を覚えた。

結果、親父の心臓はボロボロの状態だった。

手術室に運ばれる親父を見送った時、今まで感じたことのない不安に襲われた。

手術の誓約書には、はっきりと「死」という文字が書いてあった。

親父は私にとって子どもの頃からのヒーロー。

死ぬわけがない。


こんなエピソードがある。

私が子どもの頃、毎年夏になると日曜日に、お父さんたちによる町内会対抗のソフトボール大会があった。

 朝から家族総出でピクニックセット持って応援、夜は近所の公園でジンギスカン。

 結構な盛り上がりで、たかが町内会、されど町内会、いざというときの団結力はすごいものだった。

参加人数も多く、さながらお祭りだった。

子どもたちにとっても特別な意味を持つイベントだった。

同級生が町内に沢山住んでいたこともあり、どの家庭でも親父の活躍=同級生からの羨望の眼差しという図式が成り立っていた。 

だから、私にとっては特に鼻が高くなるイベントだった。

なぜなら、うちの親父は第二町内会の4番打者だったから。 

親父は全打席ほとんどホームランを打つという驚異の強打者で、当時、他の町内会のお父さんたちから恐れられていたのだ。

大会の決勝戦、逆転がかかった大事な場面で、親父の打席が回ってきた。

塁はすべて埋まっている。

ピッチャー投げる。

親父の一振り。

ボールは青空に消えていった。

逆転満塁ホームランである。

マジでヒーローだった。

そんな親父は、子どもの頃からのヒーロー。


10時間を超す手術を終え、親父は戻ってきた。

私と母の姿を見た親父の呼吸器のマスクが白く曇った。

なんだか、親父がすごく小さくなって帰ってきた気がした。


そんな大手術から二年後、親父は山に戻ってきた。

もう二度と、一緒にスポーツは出来ないと思っていたので、心底嬉しかったし、また心配でもあった。

そんな私と母の心配をよそに、親父は全快ぶりをアピール。

見事、赤岳を起点とする大雪山縦走を成し遂げたのだ。

さて、じゃあどこに行こうかという話になり、第一に親父の心臓への負担が少ない山、第二にまだ行ったことのない山、第三に絶景が味わえる山という条件で探すことになった。

そして最後に良質な温泉宿が近くにあること、という条件が母から追加された。

熟考の末、カムイ・ヌプリ(摩周岳)に決めた。


アイヌ語で「カムイ・ヌプリ」(神の山)と呼ばれる摩周岳(857m)は、摩周湖を抱え込むようにそびえ立つ山だ。

摩周湖は、北海道川上郡弟子屈町、阿寒国立公園内に位置する湖で、アイヌ語では「キンタン・カムイ・トー」(山の神の湖)という。

カムイ・ヌプリにキンタン・カムイ・トー。

アイヌの人々にとって、「カムイ」を意識する特別な場所になった所以は、この湖が持つ神秘性にある。

かつて、世界でバイカル湖についで二番目に、日本では最も高い透明度を誇り、その透明度から青以外の光の反射が少なく、また湖底が急激に落ち込むことにより、晴れた日の湖面が「摩周ブルー」と呼ばれる深青に染まることや、布施明氏の名曲でも有名な「霧」が外輪山を越えてカルデラの中にたまり、湖面を覆いつくすことで、その神秘性に拍車をかけている。


秋が深まる10月の週末、私たちは摩周岳を目指し、帯広を出発した。

帯広市内から摩周湖までは、車で約三時間、摩周岳の登山口に到着したのは11時半だった。

辺りの木々がすでに赤く染まり始めた神々の箱庭。

足下に敷き詰められた落ち葉を踏むと、とても柔らかくて、なんだか贅沢な気分。

親父の調子は良さそう。

母は、足よりも口を動かしている。

私たちは、摩周湖の山裾を捲きながら歩みを進めた。

途中、雨が降ったり、晴れたり、曇ったりとせわしなかったけど、特に気にならなかった。

家族三人でのんびり世間話をしながら登る山道は、どこまでも心が満たされた。

登山口を出発して二時間弱、特にこれといった広場ではなかったが、お腹がすいたので道のど真ん中で休憩。

どうせ、誰も来ないし、ね。

高橋家お気に入り、北海道が誇るコンビニチェーン、セイコーマート(通称セイコマ)のホットシェフの大きなおにぎりを頬張る。

セイコーマートのホットシェフは、本当にすべての商品が美味しい。

特におすすめが、揚げたてのフライドチキン。

そして、このおにぎり。

適度な塩加減に、絶妙な炊き加減のふっくらご飯、極めつけは純白の割れ目から顔を覗かせる豊富な具材の数々。

個人的には、「昆布」か「明太子&マヨ」かな。

あとは、「牛乳仕立てのなめらかプリン」も絶品です。

おっと、なんだかセイコマの営業担当者みたいになってしまった。

話を戻して・・・セイコマのおにぎりでお腹も満たされた私たちは、そこから約15分足らずで西別岳との分岐に到着。

あと、1.6km。もう少しだな。

さらに、そこから20分ほどで、なんだか突如景色が変わり、足元の落ち葉の絨毯も、一気にゴツゴツした岩肌に。

そこからは急登が続き、結構心臓にくる。

親父大丈夫かな、と何度も振り返る。

親父よりも母の方が参っている。

両親を励ましながら、登る。

昔は逆だったな。

昔は、親父がいつも励ましてくれた。

大人になり、両親は老いたけど、でも私たちは変わらず手を取り合い、助け合いながら目の前の困難を克服しようとしている。

家族っていいもんだな、と感慨にふけっていると、いつの間にか断崖絶壁の突端に登りつめていた。


そこよりも高い場所は、見当たらなかった。


14時20分、3人は摩周岳の山頂に立った。

眼下には、すべてを見透かすような深みを持った摩周湖と、古の民が見たであろう変わらぬ原始の森が広がっていた。

改めて、カムイ・ヌプリとキンタン・カムイ・トーという由来を知った気がした。

神様は本当にいるのかもしれない。困難を乗り越えた者の先に。


親父の心臓は、またひとつ困難を乗り越えた。


大きく息を吸い込むと、カムイの創り上げた秋が身体に染み渡った。

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親父、登頂おめでとう。

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