ミヤケン、100年後の未来
腹をくくる
2024年は、宮澤賢治が修学旅行の引率で北海道を訪れて100年という節目である。
賢治さんが北海道を訪れたのは、1924年5月のこと。
2014年、来道90年のときは、道内各地で様々な催しが行われ、随分と賑わった。
今回、来道100年記念ということで、もっと盛り上がるものだと思っていたのだが、開催1年を切ったところでも特にイベントの話は聞かない。
札幌市、北海道立文学館など、知人がいるところに問い合わせると、特に予定はないとのこと。
どうしよう・・・と悩んでいたところ、苫小牧市の妙見寺住職から連絡があった。
聞くと、苫小牧でも2024年5月を見据え、来道100年のイベントを計画するとのこと。
よかった、同志がいた。
住職に現状を伝えたところ、苫小牧もイベントを企画した人たちの高齢化が進んでいる、世代交代の時期に来ているのでは、とのこと。
今までは、ただの傍観者だったが、いよいよ自分たちが企画する番なのだと、腹をくくった。
そこから、色々とイベントを計画した。
最終的には、
2024年
5月18日 苫小牧市妙見寺でトークイベント「賢治の歩いた苫小牧」
5月20〜21日 札幌市役所にて「宮澤賢治 来道100年展」
6月1日 苫小牧市美術博物館の連続講座にて「宮澤賢治と北海道」講演
という、3本の大きな柱が決まった。
1924(大正13)年5月19日~23日に賢治さんが北海道を訪問して、100年。
100年後の未来はどうだったのか。
3ヶ月経って、ようやく日々の喧騒から解放されたので、じっくり振り返ってみたい。
「賢治の歩いた苫小牧」
まずは、5月18日に苫小牧市で開催されたイベント。
苫小牧市の妙見寺にて開催された「賢治の歩いた苫小牧」。
妙見寺は、北海道の賢治研究の第一人者で詩人の故 斎藤征義さんの蔵書が保管されている。
苫小牧市における、賢治研究のベースキャンプ的な場所だ。
一階では、佐藤国男さんの作品展が同時開催。
住職ご夫妻が、道南に住む国男さんのもとを訪ねて集めてきたレアな版画が机上にびっしり展示してあり、圧巻だった。
イベントは、ありがたいことに満席。
ただならぬ熱量の中で、ぼくが基調講演で話した内容は、高校教師 宮澤賢治から学ぶ、未来の教育の形。
従来の教育は限界を迎え、いよいよ再創造する時を迎えている。
日本の教育が進むべき未来は、もっとワクワクするものじゃないとダメだ。
そのために、ぼくも高校教諭という仕事をしている。
今から100年前、賢治さんは生徒たちとワクワクする授業をしていた。
賢治さんが実践した教育には、未来の教育へのヒントがある。
そんな話をした。
途中、参加者には特製スイーツ「白鳥の停車場」もふるまわれた。
銀河鉄道の夜がスイーツで再現されていた。
このイベントで、一番感動したのは、なんといっても末澤住職の熱量。
終始、会場が盛り上がり続けたのは、住職の純粋で熱い想いがあったからこそ。
イベントの最後にサプライズがあり、斎藤征義さんの奥様から、宮澤家ゆかりの品をプレゼントされた。
この話は、後ほど。
苫小牧から、最高の形でバトンを受け取り、次はいよいよ札幌の番だ。
「宮澤賢治 来道100年展」
「宮澤賢治 来道100年展」。
卒業生の有志団体「猫の事務所札幌支部」と、在校生の宮沢賢治プロジェクトチームの共催による本イベント。
5月20、21日に札幌市役所で開催され、初日107名、二日目は200名の来場があり、前回の展示会を超える307名の来場者にお越しいただいた。
展示の内容は、賢治さんの直筆複写原稿を中心に、30点以上の展示物を用意した。
札幌市、宮沢賢治記念館、林風舎、佐藤国男さん、あべ弘士さん、サツドラのみなさん、そして東京書籍の皆さんに支えられ実施することができた。
国男さんは、苫小牧市で書かれた心象スケッチ「牛」の版画をこの展示に提供してくれた。
あべさんは、心象スケッチ「札幌市」のイラストを描き下ろしで提供してくれた。
お二人とも北海道を代表する絵本作家だ。
それぞれの世界観で表現された賢治さんの心象スケッチ像が素晴らしく、来場された方を魅了していた。
2日間、たくさんの来場があった中で、この展示会に並ならぬ思いを持って来てくれた方がいる。
先日、苫小牧のイベントで出会った、斎藤征義さんの奥様だ。
実は、北海道で初めて「宮澤賢治展」を企画したのが斎藤征義さん。
1975年、当時、百貨店の催事に関わる仕事に就いていた斎藤さんが、何も面識のなかった宮澤清六さん(賢治の実弟)を突然訪ね、賢治の遺品を借用したいと申し出たことから実現した展示会だった。
斎藤さんが清六さんに思いを伝えたところ、「明日の朝一番に、もう一度訪ねてほしい」と言われ、翌日もう一度訪問したところ「昨夜、兄(賢治)と話をしました。全部(斉藤さんの)言う通りにしたがいなさいと言われましたので、なんでもおっしゃってください。」と清六さんが遺品の借用を許可してくれた、というエピソードが残っている。
賢治直筆の原稿、手帳などを展示した全国で初の展示会は大盛況だったそうで、道内の百貨店でのべ数万人の来場があったそう。
今回、奥様から宮澤家ゆかりの品(賢治辞世の句の色紙)を寄贈いただいた時にも、奥様から「斎藤の想いを、若い世代が引き継いでくれて、こんな嬉しいことはない。」という言葉をかけてもらった。
そんないきさつもあり、斎藤さんから生徒たちにバトンを渡された思いがした。
100人目の来場者は、なんと慈恵女子高校(本校はもともと女子校だった)の一期生の方だった。
ぼくの大学時代の恩師、妙見寺の住職、賢治研究で出会った方々、生徒、卒業生の保護者、多くの知人も駆けつけてくれた。
もう1人、印象深かった来場者がいた。
長女と同じ歳の小学4年生の女の子が、お母さんと一緒に来てくれた。
”アイドルよりミヤケン(笑)”、とおともだちと賢治さんの推し活をしているとのこと。
文学の未来は明るい、と実感できた瞬間だった。
小学生向けの勉強会も企画してほしい、と言われたので、次の宿題をもらった。
賢治さんが修学旅行の引率で、札幌市を訪れた日からちょうど100年後の同日。
”ビュウティフル・サッポロ”と修学旅行復命書に書き残した100年後の未来は、札幌の高校生たちが賢治さんの語り部となり、その魅力を伝える世界が広がっていた。
苫小牧市美術博物館の連続講座「宮澤賢治と北海道」
締めくくりは、苫小牧市にある美術博物館の連続講座にお呼ばれしての講演。
大学講座の入学式&第一講ということもあり満席。
140名を超す受講者の前で90分。
実は、週の頭から体調を崩しており、日増しにコンディションが悪化していたため、登壇できるか内心ヒヤヒヤしていた。
前日が最悪のコンディションだったが、寝てなんとか回復。
当日、午前中はむすめたちの運動会で元気を分けてもらい、終わってすぐに苫小牧に移動した。
苫小牧市美術博物館は、初めての来訪。
その美しい建築に感動。聞くと、外観はアイヌのチセからの意匠で、タイルは信楽焼とのこと。
会場は、ちょうど入学式が行われていた。
今回、呼んでいただいた学芸員の佐藤さんに挨拶をして、控え室へ。
用意したスライドは150枚。
当日まで、内容が固まらず、枚数だけ増えていたので、最後に微調整。
佐藤さんから館内を自由に見てくださいとのことだったので、常設展を見学。
目を引いたのが、賢治さんが苫小牧で宿泊した富士館の資料。
旅館のステンドグラスや、客用の下駄など、胸熱の展示。
肝心の講演は、みなさんがとても熱心に聞いてくださり、無事に90分走り切ることができた。
受講生の中には、そもそも賢治さんに詳しくない方も多いと考え、宮澤賢治という人物と北海道との関係について、ウィキペディアレベルで遡り説明した。
この講演で、ぼくが特に伝えたかったことは、賢治さんが苫小牧に遺してくれた「牛」と「海鳴り」の重要性だ。
苫小牧出身の詩人、賢治研究者の故・斎藤征義さんが「 (苫小牧の)ひとつの風景から二枚の写真が生まれたのである。というより「牛」という作品の裏側に「海鳴り」というフィルムがあったというべきか。その二重の風景に接するとき、その風景が、詩人に対して決定づけさせた何かを感じてならない。」と書き残している。
この2編の心象スケッチを、苫小牧の宝としてぜひ大事にしてください、と伝えた。
体調がもってくれて、ほっと安堵した。
次の100年へ
「ミヤケン、100年後の未来」サーキット。
5月18日 苫小牧市妙見寺、
5月20〜21日 札幌市役所、
そして6月1日 苫小牧市美術博物館、
無事に終えることができた。
宮沢賢治来道100年を意識し出したのは、2年前。
具体的に動いたのが、約1年前。
誰が伝えるのか。
自分などが企画して良いものか。
さんざん悩んだが、今回気づくことができた。
やはり自分は、伝える側にいるのだと。
先人からバトンが渡され、ぼくらの番になったのだと。
賢治の展示会を初めて企画した、斎藤征義さんの奥様にお会いして、そう実感した。
講演も終わり、佐藤さんと談笑していると、版画家・川上澄生の話になり、(苫小牧市内の)第一洋食店ご存じですか?と。
川上澄生や国松登らが通った100年以上の歴史を持つ老舗とのこと。
3代続く味も、当時と変わらないそうだ。
全く知らなかった。
2019年に美術博物館で企画展をしたとのことで、図録をいただいた。
まだまだ知らないことが沢山ある。
そんな自分にワクワクしている。
宮澤賢治と北海道、次の100年へ。
まだまだ未知の発見と感動があるはずだ。
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