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アマ・ダブラム

ヒマラヤのアマ・ダブラムの頂に届かなかったあの時から、10年が経った。

10年間、あの日登れなかった頂を越えようとしてきた。


この10年で、僕の身には大きな変化があった。

結婚して、子どもを2人授かった。

仕事が多忙を極め、身体も動かなくなってきた。


あれだけ近かった山が遠くなっていく感覚。

もちろん、ヒマラヤも。


だけど、山でなくともきっと別の高みはあるはずだ、と探してきた。

どこかにアマ・ダブラムはあるはずだ、と。


でも、未だ僕はアマ・ダブラム以上のものを見つけきれていないし、あの頂を越える高みに到達していない。

あの時、32歳だった肉体は42歳、もうすぐ43になる。

少しでも山関係に詳しい人であれば、この43歳は気掛かりな数字でもある。

僕の好きな植村直己さん、星野道夫さん、長谷川恒男さん、みんな43歳でこの世を去った。

近年では、ピオレドール賞を受賞した谷口けいさんも、同じく43歳で亡くなっている。

そう考えると43歳は、正直怖い。

肉体の老化が怖いのではなく、心がそこに追いついていないことが怖い。

もがいて、もがいて、まだ何もなし得ないままに、体だけはどんどん動かなくなっていく。

まだ見つかっていない高みが見つかった瞬間に、そこに飛びついて戻れなくなってしまうのではないか。

見つかった高みが、アマ・ダブラムだと錯覚してしまうのではないか。

そんな時、果たして自分は冷静に自分を捉えることができるだろうか。


ノンフィクション作家の角幡さんによれば、43歳は”経験の拡大に肉体が追いつかなくなりはじめる年齢である”とのこと。

極夜を独り旅する無謀な冒険野郎、に見えがちな角幡さんが、同じような心境で43歳に向き合っていたこと。

それを、こうして文章にしたためてくれたことに安堵した。

角幡さんの文を読んで、43歳が怖いのではなく、43歳からが怖いのだと気づかされた。

角幡さんは経験の拡大と書いているけれど、ぼくは、あれからリスクある山行はそれほど積み重ねていない。

だから、少しだけ感覚は違うのだけど、思考の拡大に肉体が追いついていない感覚は持っている。



心身ともに健康であること、とはいったものだ。

この言葉が意味するところは大きい。

どちらかのバランスが崩れた瞬間に、いとも簡単に死んでしまう。


あれから10年。

いまだ夢に見るヒマラヤの景色。

再び、あの場所に戻りたいと考えている。

戻りたいからこそ、心身ともに健康でありたい。

それは、日々の積み重ねによって成し得るものだ。


あの日、届かなかった頂へ。

43歳になろうとする、これからも。


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