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ヒマラヤ第一章 序

私には見える。

白い壁の先に。

私は感じる。

空間の先の先にそびえる大きな山塊を。


生徒たちの目線が私の口元一点に注がれている。

大きくなる鼓動。

緊張と高揚で、みるみる顔面に血が巡っていく。

圧迫された空間。

薄い酸素濃度の中、荒くなりそうな息を、整える。

覚悟はできている。

そう、覚悟。

もう後戻りは出来ない。

また大きくひとつ、息を吸い込む。

酸素が全身に染み渡り、脳細胞をチクチク刺激する。

教卓の前に広がる景色は、均整が取れていてどこか幾何学的に感じられた。

いつもと変わらない午後の、

いつもと変わらないホームルームの時間。

しかし、私はさっきから教壇に立ち言葉を発していない。

一様に、担任のただならぬ雰囲気を察知したようで、皆私の顔を見つめる。

さっきまでざわついていたクラスの残響が、静寂に包まれた空間にかすかに残っている。


「誰か何かやらかしたか?」
「それとも先生が何かやらかしたか?」
「ついに結婚か??」

などと、各々が想像の糸を張り巡らせ、教室内で絡まり、もつれている様子が手に取るように見て取れる。

これから始まることを想像すると、自然と頬の筋肉が緩みそうになる。


私はあえて表情を崩さず、こう切り出した。

「今年の冬休み、勝負だぞ」
「受験生はここで差がつく。部活動の生徒もここで頑張れるかが勝負だ」

な~んだ、冬休みの話か。

随分先の話だな。

まだ10月だぞ。

生徒たちの表情は引き締まったままだが、内心そんな声が聞こえてくるようだった。

ここで、ひと呼吸。

「それでだ。先生も今年の冬は勝負をかけようと思う。」

・・・おぉぉぉーーーー!!!

ここで、生徒たちから次の言葉を期待するような歓声が。

「やっぱり結婚か??」

大方の脳みそは、こう考えているであろう。32歳の独身教師が、勝負をかけるといったら、そりゃもちろん結婚でしょ。

そんな彼らの期待を粉々に打ち砕く次の言葉。

一瞬ためらったが、覚悟を決めて思い切りこう告げた。


「先生、今年の冬な。ヒマラヤ登りに行ってくるから」

・・・。

「厳冬期の・・・アマ・ダブラムに登るから」

「死ぬかもしれないけど、行ってくるわ!」

・・・えぇぇぇーーーーーーーーーーーーー!!!???

お馬鹿な担任の大馬鹿発言に、みな目がテンになっていた。

そして、その後に続く絶叫。

一気にざわつくクラスを、教壇の高みから僕は不敵な笑みを浮かべ、じっと見ていた。



アマ・ダブラム。

ほとんどの高校生は、この山の存在自体を知らないであろう。

しかし、私のクラスの生徒は、この名前を知っていた。

なぜなら、彼らは1年生の頃から私が職員室の壁に墨でしたためた「アマ・ダブラム登頂」という書(一説には落書きとも)をいつも見ていたからである。

生徒たちは、その達筆を見ては「なにこれ~へたくそ」と好き放題の暴言を吐き、「アマラムダブ?」「アマダブダム?」などと連呼し、その言葉を無意識の内に反芻していた。

そして、そのつど私からアマ・ダブラムへの熱い想いを、無理やり聞かされていたのである。

だから、どんな山かは知らないけれど、「先生が好きな、ヒマラヤにあるマジでやばい山」という認識はあった。

そこに本当に行くというのである。


私は、教師という仕事を宝石の研磨職人のようなものだと考えている。

ダイアモンドは、その価値基準として4つのCで判断される。

Cut(研磨)、Color(色)、Carity(透明度)、Carat(重さ)という4つの項目でその価値が決まるのだ。

そのまま4Cが当てはまるわけではないが、高校生は、それぞれ研磨された姿かたち、色、心の透明度、そして人生の重みが個性となり自己形成していく大切な時期だと僕は考えている。


個性よりも集団の和を重んじる教育を重視する日本の教育だが、私は高校教育という場をそう考えてはいない。

高校生に至る過程で十二分に集団の中で生きていく術を施されたのだから、少なくとも高校生からは個を磨く教育をしていくべきだと考えている。


私自身、父の仕事の都合上、これまでに3度海外での生活経験がある。

幼稚園から小学1年生までは南米のパラグアイで過ごし、小学校4年生のときはカナダで、高校生のときにオーストラリアで生活をした。

それぞれ現地の学校に通っていたのだが、その当時僕が通っていた学校に、他に日本人はいなかった。


パラグアイのときは、自分自身幼かったこともあり、あまり感じなかったのだが、カナダで生活したとき、正直面食らった。

そこで出会う同年代の子どもたちは、いずれもしっかりと自己主張ができる、個が形成されたひとりの人間だった。

カナダの子どもは、子どもなりに自己形成ができていた。

そのとき私は、外国人との間にはっきりと個の力の差を痛感した。


じゃあ、個の力はどうやって育てていけばよいのか。

答えは簡単、率先垂範だ。

教師自身が生徒たちのお手本となるのだ。

生徒たちに個性とは何かを考えさせるきっかけを作るのだ。

そして、中学生までにすっかり身を潜めた個の能力を引き出してやればよい。

生徒が今まで考えもつかなかったような世界に、教師自らが飛び込んでいく。

たとえば、先生がエベレストに登るとする。そうすると、それまではテレビの世界だった「エベレスト」という世界が一気にリアリティを帯びた身近な存在になる。

教師を通じて世界が近くなる。

そんな教師の姿を見て、生徒たちも「先生も行けるんだから、じゃあ私たちも行ってみたい」と考えれば、それでいいのである。

意外とそうしたきっかけで、生徒たちの可能性はどんどん広がっていくものだ。

日本だけが生徒たちのフィールドじゃない。世界は果てしなく広がっている。

したがって、教師は生徒たちを磨く前に、常に己を磨かねばならない。

少なくとも生徒たちにとって輝ける存在でなければ、教師としての資格はない。

年齢は関係なく、カッコいい大人であるべきなのだ。

毎日接する大人が夢も希望もなく生きていたら、それを見た思春期の子どもたちはいったい何を思うだろう。

または、小さなコミュニティーに埋没して、波風立てずに「安心・安全」をもモットーに生活する姿を見ても、生徒たちは何も感じないだろう。

肉体的にも精神的にも多感な時期だからこそ、生徒たちは教師という大人から、自己を形成するための様々な要素を最大限吸収したいと欲する。

生徒たちは実によく教師を見ている。

教師が暗い顔をしていたら、生徒たちも暗くなる。

教師がイライラしていると、生徒たちもイライラしだす。

不思議なものだが、生徒たちは教師にとって鏡のような存在でもある。

だからこそ、教師は日々向上心を持って生活し、なおかつ毎日人生を楽しむべきである。

それがプロフェッショナルな教師像だと私は考えている。


授業中、生徒たちに山での体験談をすると


「先生、マジばかだね~」
「なにが楽しくてそんな苦しいことするの?」
「ワタシぜったいむり~」

とか、半ばあきれながらも皆楽しそうに聞いてくれる。

普段もぬけの殻みたいな生徒も、このときばかりは目を3倍ぐらい輝かせて生き生きとした表情を見せてくれる。

さすがに、だからといって彼ら彼女たちは山には登らないだろうが、そうした日々のきっかけ作りの積み重ねが教育というものではないだろうか。

こうした己の生き様を見せるのも、プロとして教師の大切な仕事なのである。

生徒たちに見せる夢はデカイほうがいい。

大きくて、難しくて、遠いほど、その夢は輝きを放つ。

大事なことは、夢で終わらせるのではなく、明確な具体的な目標として実現させる過程を生徒に見せることである。

このとき、教壇から生徒たちの後方に広がる白い壁の遥か向こうに、私は確実にアマ・ダブラムを捉えていた。


教室には、西日が差していた。


つづく

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