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モノクロームと山の師匠


どこの山岳会にも属しておらず、山の先輩もいない、そんな素人山ノボラーの私が、勝手に山の師匠と崇めている女性がいる。


大学生の頃、私はバンド活動に夢中で、日常の中で山なんてかすりもしない生活を送っていた。

そんなときに、彼女と出会った。

小柄で整った顔立ちの彼女は、大学の一つ後輩。

ど真ん中!タイプの女性だった。

そんな彼女は大学のワンダーフォーゲル部に所属していた。


最初、ワンゲルと聞いた時に、僕は彼女がどんな活動をしているのか、皆目見当もつかなかった。

ワンダーフォーゲルという単語を聞いたのも、正直言ってはじめてだった。

ちなみに、ワンダーフォーゲルは、ドイツ語で「渡り鳥」を意味し、第一次世界大戦前のドイツにおいて広まった青少年による野外活動がその語源である。

私は、てっきり飲み会サークルだと思っていた。


だから、活動内容を聞いてびっくりした。

小柄で華奢な体からは想像もつかないようなハードな内容の山行を、彼女はさらりと話してくれた。

時には一週間以上、道内の山に入って縦走しているとのことだった。

そのとき私は、どうしてこんな可愛らしい女性が、わざわざそんなドMみたいな山登りをしているのか、全く理解できなかった。

少なくとも、今どきの女子大生らしからぬサークルの内容だった。

当時、私の中での女子大生のイメージは、汗臭いことはしたくない、動くのは疲れるからいやだ、できるだけ楽したい、合コン大好き、といった彼女のやっていることと真逆のイメージだったので、余計混乱した。

その疑問を払しょくすべく、私は彼女にしつこく問いただした。

会うたび同じ質問ばかりするので、きっと、こいつバカだと思われたに違いない。


「なんでさぁ、そんなきつい山登りするの?」
「もっと、女子大生っぽいことすればいいじゃん」

そんなとき、いつも彼女は笑いながらこう答えてくれた。

「えっ、楽しいですよ」


楽しい・・・かぁ。

楽しいのか。

そのときの私は、自分のやっているバンド活動が、宇宙で一番楽しいことだと思っていた。

でも、彼女は違う世界に生きていて、その世界を楽しいと言っている。

バンドに全身全霊を捧げていた自分にとって、彼女の発するこの「楽しいですよ」は、喉の奥に突き刺さった魚の骨のように、どこか気になる言葉となった。

私にとって、山は未だ遠い存在だったが、彼女の話してくれる「山」には不思議と興味が湧いたのだった。

その興味は、単に彼女の気を引きたいという恋愛感情からくるものではなく、遠い昔の山の記憶をくすぐるような感覚だった。

でも、結局は山には登らず、住む世界が違うんだと、彼女のこともそれ以上プッシュせずに諦め、私は別の女性と付き合った。

その後も友だちとして関係を保ち、大学卒業後、彼女は本州に就職したため、それ以降は会うこともなかった。



それから数年が経ち、彼女が北海道に帰ってきた。

そして、その時すでに、私は山の虜になっていた。

久しぶりに彼女と連絡を取り合い、山に行こうという話になった。

場所は、十勝岳。

秋が深まりつつある9月、私たちは十勝岳へと車を走らせた。

望岳台より望む十勝岳は、どんよりした鉛空にその存在感を際立たせていた。

そこに、彼女の赤いミレーのザックが一際映えた。

私は山の師匠である彼女に先を譲り、赤いザックを追いかけながら歩を進めた。

彼女のペースは、決して速いわけでないが、無駄がなかった。

山に慣れている登り方だった。

私は、そんな彼女と一緒に登っている今に、不思議を覚えた。

学生時代、住む世界が違いすぎると感じていたのに、いつのまにか彼女のフィールドに立っている。

そして今、一緒に山を登っている。

見えない糸で、彼女に導かれているようだった。

この時の私は、崇高な、そして特別な感情に満たされていた。


そんな彼女、登る道中でときどき写真を撮っている。

見るとカメラは、ロシア生まれのフィルムカメラ、ロモのLC-A。

し、渋い!

「ちょっと貸して」

レンズ越しに彼女を覗く。

モノクロームの世界に、コントラスト鮮やかな彼女のジャケットが映えた。

憧れの山の師匠との時間。

正直、途中の行程はあまり覚えておらず、断片的な記憶が残るのみ。

きっと、ふわふわしていたのだろう。

気がついたら、2,077mの十勝岳のピークに着いていた。


蒼鉛色の空と、沸々登る火山の白い煙と、果てなく続く灰色の大地。

その前にたたずむ彼女は、透き通るような凛とした表情で遠くを見ていた。

それが頂から見た私の景色。

山の世界にカムバックした私に与えられたご褒美だった。


言葉にはしなかったが、山の記憶を呼び起こしてくれ、人生に新たな活力を与えてくれた彼女に、心から感謝した。

その後彼女は、再び地元へと居を移したのだった。


数年後、いつものように本屋で山の本を立ち読みしていると、偶然ある山雑誌の表紙に彼女を見つけた。

縦走の特集で、ガイドと一緒に東北の山を登ったらしく、変わらぬ笑顔で表紙を飾っていた。


やっぱり、師匠は違うなぁ。




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