生命をいただく意味

雪がまだ溶けきらないある日、怪我をした毛艶の悪い1匹の狸が牧場の廃材置き場に居て震えていた。お腹が空いているのだろう、寒いのだろう。怪我もしているから痛いのかもしれない。でも、人間がここで食べ物を与えてしまったら、この狸は自分の力で生きていく事が出来なくなる。そう言い聞かせ、心を塞ぐしかなかった。

今までにも、狸、狐、鹿、鳥、自然界で生きている野生の生き物たちの生死を何度も見てきた。

私が住まう町ではアイヌ文化の発祥からか、その伝統や文化を若者たちが真似をしたり、町役場や住民と町おこしの一環として鹿狩りをし解体しその肉で料理を提供したりと様々な事を行なっている。

私は、猟に対してはどうこう言うつもりもないし、反対でも賛成でもないが、命を頂く、という意味を把握したうえでの視点から考えた時に、InstagramやTwitterなどのSNSに、死体に触り狩ったよ!と笑顔で写真をアップしたり、遺体を吊るして解体するその光景を躊躇なくアップすることは倫理観に反するのではないだろうかと思った。

身内や、専用SNSなどで興味がある人たちが集まる場で好きにやるのは自由だが、それ以外の場では、不特定多数の人がスマホで見れるため、画面を適当にスクロールしていった際に、その不快な写真がたまたま目に入ってしまったら嫌になるのは当然である。

鹿を狩っているならば動物の肉には飢えていないはずだが、ハンターの多くは、猟だけではなくスーパーで豚肉を買い、焼肉で牛や羊を食べる。伝統文化を中途半端に真似をして自己満悦感に浸る若者が多い事が非常に残念でならない。鹿を狩り、殺し、食べるのは、何のため?伝統文化の真似事?野生動物の生態調整?

私が知る、故郷、秋田のマタギは本物だった。生き方もライフスタイルも、猟師としてのプライドも高く、本物のマタギは、そんな中途半端な事はしなかった。山小屋で犬と自給自足の生活をし、熊が里へ降りてこないよう見張り、時にはやむ得ず退治する。鹿も同じく。その本物の猟師を知る人から見れば、中途半端な事をしている人たちは命を粗末にして、遊んでるのか!と、遺憾の声も少なくない。

原始的な暮らしを中途半端に真似る人も増えてきた。自給自足に近い暮らし、丁寧な暮らし、サスティナブル、エコ、と謳いながらも、毎晩お酒を飲み、物を買い、テレビを見て、快適さを求めて便利な暮らしをしているといった矛盾している人が多いのだ。

鳥、虫、獣、草、木、花

全てには尊い命があり、生死がある。人間は、倫理的な言動を持ち生きなければ、人間よりも弱きものたちの生命に申し訳なく感じる。全ての生命と、弱きものを慈しみ、愛し、救いの気持ちを忘れずにいてくれる人が、1人でも増えてくれる事を願っている。

命をいただく。

その命は自分の身体に必要か?

目を背けず、考えるべき課題であろう。

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