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平日仕事、土日外出。毎日人と会う日々に疲れ果てて、ほんとうに久々に家に閉じこもった今日でした。本読んだり二度寝したり動画見たり、ベッドの上から一歩も動かなかった。こういう一日の終わりの罪悪感って久々で、悪いことはしてないのにだれかに謝りたくなる。



なんだかだれのことも気持ち悪くてだめです、人との関わりが無理になってきている。浅い浅いうっすら伸びてくみたいな関係を、だれとでも保っていたいよ。深いところで交わるのは、お互いの内奥を引っ張り出そうとするのは、安心するけど美しく見えるけどなんだかグロテスクです。ちがうものが見えてしまったら?自分の醜さに気づかされてしまったら?怖くて怖くてたまりません。所詮わたしはわたし以外のだれにもなれないって当たり前のこと、突きつけられて息ができなくなる。“わたし”として生きていかなけれならないこと、だれにも寄生せずにひとりの力で立たないといけないこと、ふと思い出しては規則的な呼吸に苦しめられている。



自分のこと好きになろうとか、認めてあげよう肯定してあげようとか、何度試みてもうまくいかなかったし、今後一生そのままなんだろうなと思う。なんでこんなに、存在しているというただそれだけで苦しいんだろう。いい加減飽きたしもういいよ。何も考えず、今そのときのハッピーとか悲しみとかに一生懸命でいたい。とりたてて嫌なことがあったわけじゃない。仕事も人間関係も、たまに苦しくなることはあるけど、何よりもただ“わたし”が“わたし”であることがつらいよ。どれだけ周りの人がわたしを愛してくれても、そんな簡単に変えられるものではないです。



「歩いてるみたいに止まるね」と言われた。



なんか、幸せって「なる」もんじゃなくて「拾う」もんだと思うんだよな。「幸せになってね」とか「幸せでいてね」とか、なんとなく違和感があります。幸せって持続するものでは絶対ないし、だんだんと形を変えてゆくものであると思う。日々の細々とした「おいしい」とか「きれい」とか「あったかい」とか「好き」とか、散らばっている愛しさをすくいとってそう呼んでいるんじゃないの。恋人と一緒にいることや家庭を持つことがイコール「幸せ」では絶対なくて、その中にも苦悩がぎっしり詰まっていることをわたしは知ってる。ずっと「幸せ」を持続させてはいられないのに、その状態でいてね、と言うのはおかしい。それってもっと身近に転がっているものだと思うし、お気軽に拾ったり見過ごしたり捨てたりできるものだと思う。あーーー。「あちこちに落っこちてる幸せに気づける余裕を持っていてね」ならわかる。



こんな気色悪い人間はなかなかいないので誇っていこうか。人差し指の爪だけ妙に伸びるのがはやい。ずっとマイナンバーの受け取りに行けていないし、NHKの料金払えてないし、部屋は散らかってゆくばかりだし、酒も煙草も水もきらしたままだし、よくわかんない呟きみたいな音楽が流れっぱなしだし、なんだかむずかしいな。つくえのうえのひまわりがきれいです。それだけでじゅうぶんならよかった。

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