見出し画像

「実家がないの民」って、けっこういるんじゃないかな?

よく考えたら「実家」って言葉ってすごい。

リアルな家。家オブ家。トゥルー家。藤井フミヤなら「まぶしすぎて目を閉じても浮かんでくるよ」と歌いそうだ。


僕には、目を閉じても浮かんでくる「実家」がない。

物心つく前から埼玉のおじさんおばさんのもとで育てられて、週末だけ両親がその家にくるものの、気がついたらおじさんおばさんにも、両親にも心をひらかなくなっていた。

だから、25年育った埼玉の家も「実家」かと聞かれたら「う〜ん…」となってしまう。お盆とか年末年始とか、みんなが帰省する時期には、取り残されたようなさびしさを感じたりして。「俺、実家ねぇし!」って。


「実家」の定義って、おそらく「幼少期をすごし、愛着を持っている家や家族」みたいな感じだろう。

僕が今探究しているのは「ホーム=帰る場所をどうつくるか」っていうことで、その前提には「帰る場所」はつくれる、っていう確信がある。けれど、タイムマシンで幼少期に戻りでもしなければ、「実家」はつくれない。


なので僕にとっての「実家」は、イメージの世界のもの。幻想なのだ。

かくもかなしき、ジッカという存在。でもじっさい、「実家がない」って感覚がある人ってけっこういるんじゃないかな? 親が転勤族だった人もそうだろうし、施設で育った人もそうかもしれない。難民とか、ディアスポラとかもそうかも?

日本では、脱工業化が進んで家族の個人化、つまり家族のあり方を自分で選択できるようになっていった。それに伴って、両親と縁を切ったり、実家と疎遠になったりして、「実家がない」状態になった人は増えていったんじゃないか、と想像する。

なんて書いてたら、「なんだ、実家がないの俺だけじゃないじゃん!」って思えてきた。いつか「実家がないの民」たちで集まって飲みたいものだ。実家はないけれど、そうやって人と関わり合いながら、それぞれの「帰る場所」をつくっていくのだ。

サポートがきましたって通知、ドキドキします。