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「趣味は自己分析」ってまじ? 自分を知るのを楽しめるワケは、「反省」じゃなく「研究」をしてるからかも

趣味は自己分析です。

なんて言うと引かれるかもしれないですね。「うへぇ、あんなめんどうでやっかいなことのなにが楽しいの?」って。でも楽しいんだなー、これが。

僕は毎月スーパー銭湯に行って、その月の振り返りと来月の目標を立てつつ自己分析をするのですが、その時間が結構楽しみなんです。「あ、自分こんなところあるんだ!」「こんなこと考えてたんだ!」って、30年生きててもまだ発見があるから。


自己分析が楽しい人と、自己分析が嫌いな人。その違いは、自己分析の捉え方にありそうです。

先に結論を言うと、前者は自己分析を「研究」(その意味だと「自己分析」というより「自己研究」という言葉が近い)だと捉えていて、後者は「反省」だと捉えているように思います。

そのあたりを考える上でヒントになるのが、浦河べてるの家で行われている「当事者研究」。これまでのnoteでも何度か紹介してきましたが、統合失調症やアルコール依存症など、人にも自分にも否定され続けてきたような経験を「研究」という形でとらえなおし、仲間に共有し、その人に合った自助のあり方や理解を創造していく取り組みです。

(当事者研究の詳細は、「浦河べてるの家」理事である向谷地生良さんによる以下の説明をご覧ください。)


この「当事者研究」の意義として、野口 裕二さんは「研究」というかたちをとることで、「問題が公共化」されることを挙げています。

何か問題があった時に、僕たちは「反省」してしまいがちです。「反省」は、その問題の解決策に導いてくれることもあるけれど、どこか「解決しなきゃ」という義務感がつきまとう。さらに、解決できなかったときに自分のダメさに直面し、自分を否定してしまうことにつながります。

総じて、「反省」は孤独感をより強めてしまいがちです。

これがまさに、「自己反省」につきまとうめんどうさ、やっかいさなのではないでしょうか。

一方当事者研究のような「研究」は、「解決しなきゃ」という義務感というより「新しいなにかを発見したい!」というワクワク感があります。さらに、失敗してしまったとしてもその失敗を素材として、次の研究に活かしていくことができる。さらに個人の研究を進めることが、同じような問題に苦しむ誰かの役に立つかもしれないというふうに、「問題を公共化」できる。

総じて、「反省」につきまとう孤独感をのりこえることができます。


僕は当事者研究を体験したことがないので、確かにそうである!と断定はできないのですが、自己分析、いや自己研究をしている時の楽しさはまさに、野口さんがいうような「研究」をしている感覚だなぁと。

もちろんいろいろ課題はあるし、いつまで同じことで悩んでるんだよ…と自己嫌悪になることもあります。が、それもこのnoteに書けば誰かの役に立つかもしれない、自分は研究してるんだ!なんて考えるとポジティブに捉えることができます。

ただ、僕は基本的に一人で自己研究をしているので、もしかしたらそれを誰かと一緒にやったらもっと楽しめるかもしれません。


今日は「自己を研究する」ということをお話ししました。もし「自己分析しなきゃだけど、マジつらみ!」という方がいたら、「自己研究をする」というふうにスタンスを変えてみてはいかがでしょう? 一緒に行なえる仲間がいるのならさらにいいですね!






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