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「自分を疎外しない働き方」ってどんなもの?(4)ナラティブの可能性
これまで「自分を疎外しない働き方」ってどんなもの? っていうことを考えてきました。
▽これまでの記事はこちら
「自分を疎外しない働き方」ってどんなもの?(1)「現在が未来の手段になる」ことについて
「自分を疎外しない働き方」ってどんなもの?(2)自分が他者の手段になることについて
「自分を疎外しない働き方」ってどんなもの?(3)「今ここの自分」を立ち上げる。
自分の思考の整理として書いているnoteなんですが、それでもポツポツと読んでくださる方がいて、感謝感謝です。
さて、前回のnoteでは、次のような問いが浮かんできました。
「未来」「過去」「他者」「自己」の四点を接地点にして、中心「今ここの自分」をモリッと立ち上げていけるような働き方ができたら、「自分を疎外しない働き方」が実現できるんじゃないか。
言いかえれば、「今ここの自分」を手段にしないということ。
それはどうしたらできるんだろう?
これだけだとわかりづらいので、図も再掲。
「わたし」は、「未来-過去」、「他者-自己」という座標軸のうえで行ったり来たりしている。
先ほどの問いは、「「未来」「過去」「他者」「自己」の四点を接地点にして、今ここの自分をモリッと立ち上げる生き方があるんじゃないの? そのためにはどうしたらいいぼ?」ということでした。
僕は、「未来」「過去」「他者」「自己」の四点と「今ここの自分」の媒介となるものは、「ナラティブ」なんじゃないか、と思っています。
「ナラティブ」とは、動詞である「語り」と名詞である「物語」、どちらも含んだ言葉。現代では医療、ソーシャルワーク、組織論、そしてキャリア開発など、さまざまな分野でこの「ナラティブ」という考え方をもとにした「ナラティブ・アプローチ」が広まっています。
「ナラティブ」の重要性について以前noteでこんなことを書きました。
自己を表現でき、また他者の多様な語りと出会うこことができ、それによってまた自分の新しい語りが生まれる、そして自分の語りを誰かに承認してもらえるようなコミュニティが、僕たちにとって必要なんじゃないかと思うのです。言い方を変えれば、そうしたコミュニティによって僕たちのキャリアは育まれていくんだろうなと。
(引用:自分を語るのが怖い「自己紹介恐怖症」。だからこそ、自分を語れる「ナラティブ・コミュニティ」が必要?)
また、別のnoteではこんなふうにも。
語りを、自分だけにとどめるのではなく、誰かに聞いてもらって承認してもらえる場。そんな場が持てたら、「まなざしの地獄」からちょっとずつ抜け出せるんじゃないかな。少なくとも僕は、最近そんな場があるので以前ほど苦しくなくなりました。
(引用:「「まなざしの地獄」と「わたしの語り」」)
これらのことを書いたときは、「他者」と「自己」をつなぐものとしての「ナラティブ」の可能性について考えていたのですが、それだけではなくて、「ナラティブ」は「過去」と「未来」をつなぐものでもあるんですよね。
例えば各地で語られてきた昔話は、物語というかたちで過去の出来事や、そこから学ぶべき教訓を伝えるものだった。「これからこれを頭の片隅に置いて生きていきなさいよ」と。それは、「他者」と「自己」をつなぐものであるだけでなく、「過去」と「未来」をつなぐような営みで。
そして、「ナラティブ」はまさに「いまここ」で起こるもの。
そう考えると、「ナラティブ」が「未来」「過去」「他者」「自己」の四点と「今ここの自分」の媒介となる、ということが少し納得できるんじゃないかと思います。
…え? できない? そうかもしれません。僕も「ナラティブ」の可能性について、まだ探究しきれてないところがあります。
なので、「「自分を疎外しない働き方」ってどんなもの?」っていう問いは一旦ここでおしまいにして、これからは「ナラティブ」の可能性について、探求していこうと思います。
多分また3ヶ月後ぐらいに、また探求の結果をnoteでまとめると思うので。そしたらまた、お付き合いくださいませ〜。
サポートがきましたって通知、ドキドキします。