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食材を食べるために知る

#foodskole 「2021年度前期Basicカリキュラム」
「食」に夢を持てる社会を創りたい
第六回目の授業は6月22日火曜日、「食材の始末を考えて料理をするということ」
この授業の課題は、さまざまな問題に配慮することで、料理すること、食べること、買い物することが難しくなる。楽しくなくなる。窮屈になる。そうならないための視点とは。
講師は、日本料理一灯の長田勇久さん。

長田さんの話は、これまでの授業の中で個々に存在していた問題が、消費者の側にたってどう見ていくのかということに注目していると感じた。長田さんは料理人の立場として、食材にどう向き合ってきたのか。そしてどう向き合っていくのかという話。
この授業に関して、私は「食材を食べるために知る」ということと、「調味料を使いこなす」というふたつの視点でレポートを書きたいと思った。
ここでは「食材を食べるために知る」をまとめてみたい。

写真 foodskole / 一灯 長田勇久さん

大根をどう食べるか ~私の場合~

大根を食べつくすにはどうするか、という課題が授業の前にあった。提出したのは私一人だったようだが、長田さんが私の大根利用法について引用されていたので、私の利用法はある意味「正解」だったのか(?)
そういえば、私も最初は大根の皮や茎は捨てていた時代があったと、遠い目をしてみる。

大根

私の大根の利用法は、秋冬と夏では異なる。
旬の時期の秋冬は、できるだけ葉つきのものを買う。
①葉っぱ
ふりかけや含め煮などの保存食にする。タンパク質と油と相性がいい。
茎の部分は、味噌汁の具にしたり、肉と炒めたりする。
②上のほう
甘い部分なので、大根おろしにする。薄味で風呂吹き大根にしたりもする。
サラダにするならこの部分。
③真ん中
なんにでも使う。大根おろしにするならここまで。
④下のほう
水分が少なく辛いので、煮物や炒め物にすることが多い。
⑤しっぽ
しっぽと茎と本体の間の部分は、シンクの掃除に使う。酵素の働きでピカピカになる。
番外
皮はほとんどむかないが、皮をむいたときと面取りしたときは、きんぴらにしたり、味噌汁の具にする。
おろしの汁は嫌いなので、味噌汁のダシとして使う。タイミングがあえば、ご飯を炊くときの水にすることもある。

夏の大根は辛いので、部位で買うことが多い。そもそも、夏は白い大根をほとんど買わない。ラディッシュ系の生で食べるような大根で、夏においしいものは買うこともある。

大根をどう食べるか ~長田さんの話~

長田さんの話としては、大根の切り方にも特徴があった。
大根の繊維をどうするか、断ち切るか繊維に沿うのか。大根の場所によっても繊維の方向が異なるので、それを考えて切るということ。
また、繊維を破壊するという意味では、冷凍するというのも面白い方法だ。冷凍することで、大根の細胞壁が壊れて味がしみこみやすくなる。そういえば、浅漬けなどを作るときは、凍らない程度の時間冷凍庫に入れておくことがある。早く味がしみておいしくなるのだ。
逆に、大根の水分をとばして味を凝縮する方法として、干すという方法もある。皮などを干して簡単な切り干し大根を作ることもできるし、漬物を漬けるために丸ごと何日も干すこともする。
そのまま、冷凍する、干すを経て、そこに味を含ませる。そのまま調理をするのであれば味つけだが、おいしく食べるために漬けるという方法も、大根の特徴と向き合う方法。大根の水分を調節し、そこに味を含ませていく。

いずれも大根の特徴を考えなければならない。同じ方法でも、素材がかわれば結果も違ってくる。繊維と水分量が多い大根を、どう扱えばいいのかを考えながら調理していく。切る方向、形、大きさ、素材の持つ特徴をどう活かすかをデザインすることが重要。
今はレシピを見ればだいたいのものは作ることができるが、どのレシピにもその素材とどう向き合えばいいのかは、あまり詳しく書かれていない。素材の特徴と向き合って、どうすれば一番上手に仕上げられるのかを、観察し実験することも大切だと感じる。

それは味つけにもいえることで、プロは「五味」を意識するという。
甘味、塩味、酸味、苦味、旨味
これは、そういう味つけにするのではなく、素材の味から引き出す。それには、その素材の特徴を知る必要があるだろう。どんな味つけをすれば、どういう味が活きていくのか。すいかに砂糖をかけるよりも、塩の方がすいかの甘味が味わえるのと同じようなことだろうか。
切る、水分を調節する、細胞と向き合う、味の相性を考える。
料理は非常に科学的なものだと思う。

それでも食べられないもの

以前、叔母が農家にバイトにいったときのこと。
人参の泥を落とすのに薬を使っているのを見て、それまでは皮をむかずに食べていた人参を、皮をむかないと食べられなくなった。
そもそも人参の皮は非常に薄く、私たちが皮だと思っているところは実は皮ではない。
泥付きの人参をたわしで洗うと、日焼けの皮のようなものがむけてくる。それが人参の皮だ。
泥だけをとれば食べられるが、泥を落とすと皮が文字通り日焼けの皮のようにめくれあがって見栄えが悪い。なので、それを薬で溶かしてつるつるにする。

長田さんの話では、大根の葉も最近は大根の葉だけ別に売られていることもあるが、葉を落としてあるのは、追肥するときに農薬を散布することで汚染されてしまうので落とすのだという。
残留農薬はいまや厳しい規定があるため、昔のように農薬まみれの野菜というものは流通していない。
しかし、食べられるのにわざわざ落として売られているということは、それなりの理由があることを知った。

また、じゃがいもの皮は滋養があるけれど、芽がでて青くなった皮には毒があるので食べられない。でも、それを知らない人も多い。

何が食べられて、何が食べられないのか。
それも、食材と向き合うということだと感じる。

食べ物を食べつくすことの雑感

高口里純の『花のあすか組!』という漫画の中で、とりわけ印象的なセリフがある。
ソースを確認できなかったので、だいたいの概略として引用する。

食材として生まれた豚は、ずっと暗い豚舎で過ごして、一生のうち一度だけ日が当たる場所に出られる。
それは自分が死にに行くとき、豚舎からトラックに積まれるときだけだ。
そんな豚にとっての救いはなにか。
食材として全て食べつくされること。

この漫画は、中学生から思春期の少女たちが主人公。自分は食べつくしてもらえる豚かどうか。残され捨てられ廃棄される豚であったら、自分の存在価値はなんなのだろうかと、自己肯定と向き合うシーンで出てくる。
でも、これは今の自分にもいえること。そして、私たちがふだん食べている食べ物にも通じるものだ。
その食材が食材として自分に届けられたのであれば、私たちはそれを無駄なく食材としてまっとうさせることが、「命をいただく」ということの責任と義務だと思う。
野生の動物も、無駄な殺生はしない。肉食動物はお腹がすいていないときは狩りはしない。
食べられないものは手に取る必要はないし、食べきれない量を確保する必要もない。少なくとも、食料がどこにもなくて明日には死ぬかもしれないという恐怖は、今の日本では一般的な状況ではないだろう。

今は自由に食材をお店で購入でき、いろいろな文化に触れて再現する機会がたくさんある。
無意識に意識を向けて、今まで扱ってきた食材が、どのような構造をしているのかを知ることだって、今は簡単にできる。
私たちがふだん食べている煮物や炒め物などの家庭料理だって、日本文化の一つだ。

キルギス人の友人が日本に来たばかりのとき、私が「бешбармак(ベシュバルマック)五本指のうどん」という名前のキルギス料理を作ったとメールしたら

こじまさんの家には羊がいるの?
бешбармакを作るときは羊をつぶして作るの
羊をつぶすときはお祝いなの お祝いの料理なのよ

と返事が返ってきた。
残念ながら我が家には羊はいないので、羊肉はスーパーで買ってきた。

遊牧をしながら羊や牛と暮らす人々は、羊をつぶしたときはひとつも無駄にしない。
血の一滴さえも大地にこぼさないよう注意を払う。
それは、厳しい環境の中で家畜は貴重な食材であると同時に、それまで一緒だった羊に敬意を払うという意味も含んでいる。

どんな食材にも、作った人がいて、それを運んでくれる人がいる。自分が調理をする人になるかもしれないし、自分は食べる人かもしれない。
少なくとも、そのいったんを担うのは自分であるという意識をもって、楽しく食材に向き合いたいと思う授業だった。



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