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“料理”を考察する

#foodskole  「2021年度前期Basicカリキュラム」
「食」に夢を持てる社会を創りたい
第七回目は7月13日火曜日、八回目の授業は7月27日火曜日、「なぜ料理をするんだろう?を考えてみる」
この授業の課題は、料理をする人もしない人も、「料理」に一旦向き合う。「人が料理をするということは?」を徹底的に考える。
講師は、Cookpadの横尾祐介さん。

横尾祐介さんは、いろんなベクトルを持っているように感じる。前職はブラジャーのヒットマネージャーで、今はCookpadの人らしい。
ある時は謎の用務員、ある時はブラジャーのヒットマネージャー、しかしてその実態は...... という印象の人。
ゲスト講師となっているけれど、今期のfoodskoleに最初からいて、廊下で友達と話していると、通りすがりにちょこちょこ話に入ってきては去っていくような、なんとなく用務員さん的な感じ。用務員さんだと思っていたら、今回は先生で登場でした。

「なぜ料理をするのか」ダシと調味料と油

横尾祐介さんの授業は7月だが、課題は4月から発信された。「なぜ料理をするのか」
これに対して私は一番最初に調味料と油を思い、こう回答している。

私にとって料理とは、ダシと酸辛甘の調味料と油です。
ダシと調味料と油で、同じ素材が別の国の料理になる。調味料を塩でしばるなら、ダシが料理の土台になる。
この3点を起点にして料理を考えると、そこには文化があり土地が見えてきます。

これは、これまでいろいろな国の人と出会い、そこの土地の食文化に触れて思ったこと。仕事に関わって私個人に影響したもの。シルクロードとアイアンロードと麵ロードの中にある餃子との相関性。オスマントルコとチンギスハーンのモンゴル帝国を考えて思ったことだ。
餃子はユーラシア大陸全体とヨーロッパにわたって似た食べ物が存在するが、国によって中身も味つけも違うという究極の国民食。日本のラーメンや餃子のような存在は、すでに紀元前にユーラシア各地で存在していた。
発祥は、中国か?ローマか? 今のところ、紀元前500年前の餃子の化石が新疆ウイグル自治区から出土しており、これが最古の餃子の存在証明なので、軍配は中国にあがる。

この地球の半分以上の土地に広がる餃子は、私に調理の大きなヒントをくれた。
土地による大きな違いは、ダシと味付け(ソース)と油。同じ食材で同じように調理しても、ダシと調味料と油が違えば、ご当地料理に変わるのだ。レシピが違えば国が違う。でも中身は同じ。まるで国境と民族の問題のよう。

でもこれは、「なぜ料理をするのか」という質問の答えではない。

「なぜ料理をするのか」『料理』と『調理』

5月に入って、私は下記のように答えている。

なぜ料理をするのか
①素材の細胞壁を壊すため
調理するというのは、それらを食べやすくするために「細胞壁を破壊する」必要があったのではと想像します。熟成も発酵も腐敗も、細胞壁を破壊することで素材を食べやすく、また保存がきくように加工する知恵だった。それが発展したものが調理なのでは。(略)
②調理と料理ってどうちがう?
で、ぐぐってみたら、調理は食材を加工して食べやすくすることのよう。料理は食べ物を作ることであるらしい。
①が調理だとしたら、外で狩りをしたり漁をしたり農業をするところからが料理。(略)
③味は家族単位の文化
料理というのは、その人とその人のいた家庭のアイデンティティであり、文化である。(略)

①は科学の実験と同じ。アミノ酸の相性や発酵と腐敗のボーダー。食材を分けやすく、食べやすく、保存しやすくするために培った、太古からの人の知恵の集大成。
でも、調べてみると『料理』と『調理』は違うものらしい(②)。『調理』は『料理』の一部であり、『料理』の最終段階が『調理』のような印象。
③は前述した餃子のミニマムエリアの話。土地によって餃子の形態が違うように、家庭によっても味の違いは存在する。①のやり方も、土地、国、民族、集落、家族によっていろいろ存在している。それは一つの文化であり、結婚はその文化をお互いに認識し融合させるものだと思う。

料理に対する価値感

他の参加者の多くの人は、「自分のため」「誰かのため(家族とか)」に料理をするという発言が多くみられた。あとは、クリエイティビティな欲求を満たすためなど、自分を含めた【対人】が料理をすることの発動欲求になっているらしいことがわかった。
授業中に示された価値感に対するマグロー図でも、「健康的な生活」「共に楽しむ」「認めてもらえる」「クリエイティブ」「役に立てる」といった内容が示され、食の安定供給によって食の価値感が変わるという説明がなされた。

食が文化であることは、戦争で一度リセットされたように個人的には感じる。
食を楽しむ余裕がなく、生きるためのぎりぎりの食。戦中、戦後はそういう時代だったのではないかと想像する。
食に文化価値が加わり、楽しむという欲求要素が頂点に達したのは、やはり1980年代後半から1992年くらいまで。そこからその文化価値が本物かどうかが問われ、ネット社会が定着したことでグローバルな視点が定着し、食の文化価値がさらに高まっていったように思う。

その中で『料理』が「承認欲求」「利己的欲求」になっているのは、少し意外だった。私にとっては『調理』そのものは化学反応の結果であり、その塩梅を測りながら行うものであると思っていたからだ。
確かに、家族と自分が作ったものを食べて、おいしいと食べた人から言われるのは嬉しい。盛り付けがうまくいくと楽しい。義父はいつも季節になると鮭を釣って送ってくれたが、食べておいしいと伝えると嬉しそうにしていた。送ってくれた義母も喜んでいた。
それは『調理』や『料理』とはまた違った視点のものだと思っていた。

しかし、『料理』がそれを入手するところから始まることを考えると、そういう心理も『料理』をするということになるのだろうか。
そうなると、大切な来客のために美味しいレストランをセッティングして、自分で作らない『調理』されたものをみんなが喜んで食べる。そのお店のセレクトをほめられて満足するということも、広義では『料理』になるのだろうか、という疑問が残った。

授業の中で、「群れの中でけがをした狼に、群れの別な狼が咀嚼したものを与える」という行為が料理に通じるのではということがあったが、これは生き物が群れの中で食べるもの得る最低限のことのようで、例えば自給自足率が高い地域で、調理自体手の込んだものを食べない文化の民族にも同じことがいえるように感じた。
私は結婚したときに、夫に「私が寝たきりになったとき、まずいものを食べさせられるのはいやだから、今から料理(調理)ができるようになってほしい」と半ば強制的なお願いしたのだが、この欲求はここより少し上のものであろう。
実際、消化器系の疾患で数度の入院・手術を繰り返すと、数週間の絶食というのが当たり前な状況があり、食というもののありがたさを感じずにいられない。管理された中での絶食は、それが少し回復してからであっても、慣れてしまうとさほど辛いこともないのだが、不思議と「おいしいものを食べたい」と病院の中では思わなくなる。それでも「まずいものは食べたくない」とは思うのだけど。

八回目の課題はおむすび ~私のコンセプト

7月27日の第八回目の課題は、コンセプトを決めておむすびをデザインし、当日オンラインでみんなで作って食べるというものだった。
私はこの時期非常にタイトで、この授業自体出席できるかどうかわからなかったので、事前に作ってその結果を提出した。

コンセプトは「チーズの至る時間」
チーズの鑑評士になる勉強をする中で、自分にとってチーズとはなんだろうか。なぜチーズなのかを考え、それを4つのおむすびに表現してみた。
ひとつは「子供の頃のチーズ」。私の子供の頃は、チーズ=プロセスチーズだった。ひとつのロットがわりと大きく、食べきれないと冷蔵庫の中で固くなってしまう。母はそれでも冷蔵庫にチーズを欠かさず、おやつや餃子、海苔巻きなどでチーズを食べさせてくれた。それを表現したもの。

プロセスチーズの餃子とパルメザンチーズご飯のおむすび

ふたつめは、「トルコ料理」。私がかかわるユーラシアの国々の料理は、大きくトルコの影響下にある。イタリア料理さえもトルコ料理が原点だ。トルコに行ったときに、日本料理との共通性とその食材の多用な使い方が衝撃だった。それから、私自身もその影響を少なからず受けている。それを表現したもの。

ハルーミチーズ+トマト+松の実+ナスのグリル with ジャジックソース

ジャジックソースをかけたところ

みっつめとよっつめは、本格的なナチュラルチーズをおむすびにアレンジする。その時に和の食材と合わせることにしたもの。

左がブルーチーズのフルム・ダンベール+山椒+鰹節
右がミモレット+七味マヨ+とろろ昆布

マリアージュとして、いっしょに飲むといいのではと思うお茶もセレクトしてみた。

八回目の課題はおむすび ~授業で

当日は、私以外の参加者は全てリアルタイムでおむすびを作っていた。私は別な作業をしながらの参加だったので、ビデオを切って参加した。
参加していて思ったのは、最初にラップにご飯をのせる人とお茶碗にとる人に二分したこと。そして、直接ご飯にさわる人とそうでない人。
それでも、食べるときは素手で食べる人が圧倒的だったこと。
意外にも、ご飯に何かまぜる人が多かったこと。
鰹節が影なる実力者としてフィーチャーしたこと。
のり弁をおむすびにしたものが、ダントツ人気だったこと。
みなさん15分の制限の中で、思い思いのおむすびを作っていて、どれもおいしそうだった。

先に作って提出した人は私ともう一人いて、そのもう一人の人のコンセプトが「結ぶ」ということに焦点があり、大根と人参のなますで上手に三角おむすびに巻いた水引を表現していたのが印象的だった。
しかし、先に提出した人のことは授業内ではまったくふれられないままで、紹介もなかったのが非常に残念。当日は調理できない人も可という話だったのだが、調理できない人は参加しない方がよかったようで少しいづらかった。この日は個人的な作業もつまっていたこともあり、時間外を受けずにそのまま終了した。

授業を受けて

とても興味深い授業だったが一番感じたのは、「自分の常識は自分以外の人とは共有していない」ということだったと思う。
もちろん共通項はあるだろうし、その共通項が多ければ多いほど親しみもあるのだと思う。しかし、共通項が少ない食材や料理を共有するのは、食が直で生命に影響することを考えると、わりとハードルの高いものがあると思う。
夫が中国出張でセミとみみずのような昆虫の料理を食べてきて、すごく美味しかったと帰国したとき、虫嫌いの私は戦慄の走る気持ちになったことを思いだす。

食の循環でも、摂取する食べ物を「残して廃棄する」というのは私の知る限りは人間だけの行為のようにも思う。肉食動物は野生のヒエラルキーの中で、食べ物を共有し、バクテリアが分解し、土地の肥やしになって循環する。
その話は、次回のうんこに続くらしい。

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