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SDGsのメガネをかける

#foodskole 「2021年度前期Basicカリキュラム」
「食」に夢を持てる社会を創りたい
第一回目の授業は4月13日火曜日、「まずは循環のはなし。世界のこと。」
この授業のゴール(目標)は、「『SDGsメガネ』で食を見ることができるようになる」。
講師は、株式会社ワンプラネット・カフェ取締役でサステナビリティ・プロデューサのSatoko Ekbergさん、Peo Ekbergさんのご夫妻。
この授業はオンラインで出席。内容は、SDGsの全体の取り組みと、スウェーデンでの取り組み例の紹介だった。


SDGsとスウェーデンでの取り組み

SDGsは、最近我が家でも話題にのぼる。夫が仕事で携わる内容に大きくかかわっているし、テレビのドキュメンタリーなどでもテーマにされることが多いからだ。NHKなんかはテーマソングまである。

2015年の国連で採択された、2030年までに達成する目標が「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals)」SDGs。17の大きな目標と169のターゲットに分類されている。

今回の授業は、まずはこのメガネを手に入れることが目標だ。
授業で取り上げられたのは3つの柱、12番「つくる責任 つかう責任」、14番「海の豊かさを守ろう」、2番「飢餓をゼロに」。
ここでは、SDGs目標達成第一位のスウェーデンと日本の比較を基に、スウェーデンでのネイチャールールを学ぶ。スウェーデンでの取り組みは、「楽しく、おいしく、正しく」
化石燃料を使わない再生可能な取り組み、絶滅危惧種に対する海洋資源への取り組み、そして自然環境に対応した企業や団体に発行される認証システムについて。

「正しい」という言葉

この疑問は、授業のはじめの方で発生したため、この授業の中でも、そして今でもずっと私の中でくすぶっている。

正しいって何?

何をもってして正しいのか、誰にとって正しいのか。
それは地域と文化と宗教の違いで、いかようにも変わるものなのではないか?
スウェーデンにとって「正しい」ことが、日本でも正しいかどうかは別な問題。それは世界のどの地域にもいえることだ。
Ekbergさんも、この言葉を使うことが“正しい”かどうかはわからないけれど、ニュアンスとしてこれを使っているという説明をされていた。でも、この授業の中で私はこの言葉が強烈な印象として残ってしまった。

授業を受けてあらためて思ったことは、スウェーデンでの取り組みは、さすがに世界第一といえるような内容だと思う。先進的だし、政府、行政、企業、そして国民が一体となって取り組んでいるのが伝わってくる。
ヨーロッパでも政治的にすでにSDGsを意識しない政策などありえないし、EUを貿易相手国とする企業は、SDGsを意識しないわけにはいかない。だから、ヨーロッパを中心にSDGsの意識が広がっていることが、ニュースなどを見ていてもわかってくる。

しかし食に関していえば、国、民族、地域、家庭、個人と、それぞれに食の文化が存在していると私は思うのだ。それは文化的な背景やあらゆる要素が加わって、単純にビジネスなどの問題と同様にすることができない。国レベルでいえば、相互の理解がない以上、ひとからげに簡単に語れるものではないようにも思う。
それを共通事項として意識していこう、というのがSDGsだということは理解できる。
「押し付けたり強要したりせずに」という説明もあったが、畜肉を否定したり、畜産を否定したりしなければ成り立たない項目もあり、絶滅危惧種との整合性が成り立たないように感じる。
また、私たちの時代は「森林資源の代替品としてのプラスチック」という思想が存在していたため、それを再び森林資源に戻すということもすんなり入ってこない。地球の資源が大切ならば、どの資源も地球にとってはかけがえのないもので、それが地下資源であるか地上の資源であるかは関係ないのではないかと感じたからだ。まして、資源の乏しい日本では、さらにどうすべきかという課題は、すでに半世紀も前から問われているのだから。
徐々に生活を変えていくのであれば別だが、締切は目の前にせまっている。何が正しいのかという共通意識を早急に広げていく必要は感じるが、そこに強要があるのは多様性を尊重することにはならない。

Ekbergさんは授業の中で、スウェーデンでの取り組みが絶対的であるとは言っていない。それは考え方を押し付けているものではなかったし、ひとつの例として紹介されていることも理解している。
ただ、ヨーロッパの先進的な取り組みは、制限を生み、意識を生み、それが正義であるという風潮をすでに生んでいて、それが多少なりとも摩擦を生んでいることを私はすでに感じていたので、ここで使用された「正しい」という言葉がずっとひっかかっている。

私が感じる取り組みの問題点

こういう疑問をもつのは、たぶん私だけではないだろう。新しい取り組みに対しては、少なからずそこに不利益が生じる人が出てくるだろうからだ。
最近見た2本の映画。
「グリーン・ライ~エコの嘘~」

「プラスチックの海」

「グリーン・ライ~エコの嘘~」では、エコロジー認証の裏側について消費者目線から問題提起した映画だ。
エコロジーという名前で金儲けをしようとするもの。その国で認証を守るために、後進的な地域が犠牲になる事例(例:パーム油問題)。そしてそれを利用して利益だけを得ようとするもの。
授業中では認証を運転免許であると例に出されていたが、運転免許であるならば国際的な共通項を徹底させなければならないし、国際的な罰則も必要だと思う。必要なのはその国の免許ではなく国際免許なのだろう。
また、「プラスチックの海」では、海洋プラスチックの問題を提起すると同時に、調査をする研究者が、自身の生活の中でモンスター化していく感覚について描かれている。正しいという正義感から、その感覚を持たないものに違和感を感じ攻撃してしまう。

ヨーロッパでも、たぶん国ごとにジレンマのような摩擦が生じているだろうし、スウェーデンの中でもみんなが同じような感覚になるまでには時間がかかった点もあっただろうと思う。
「正しい」という言葉で表現されるのであれば、それが正しくなるまでの紆余曲折も知りたいと思った。

特に認証に関しては、既得権益に関する問題点を指摘するものを目にする。「グリーン・ライ~エコの嘘~」はそれを例にあげたものだ。
SDGsを進めていく中で、認証システムはまだ課題を多く残すものだと感じる。

授業中ひとつだけ、それは絶対に違うと思うことがあった。

「日本人は何にでも免許を作るくらい免許が好きでしょ? どうして日本で認証システムが定着しないのかわからない」

と認証システムの正当性を表現されていたのだが、法的罰則がある運転免許とただの資格システムであるお花の免許と同格に語ってしまっては、ヨーロッパの認証システムがあまり意味のないものであると言っているのと同じことになってしまい、意味がよく理解できない。日本のお花の免許は、別に免許を持っていないくてもお花は生けられるわけだし。

私の周辺のSDGs

スウェーデンやヨーロッパの取り組みがきちんと形になっていることを考えると、日本での取り組みはまだバラバラで課題も大きい。
多様性を...... なんていっていても、あちこちの都合を取り込んでいたらいつまでたっても動かないのも問題で、実行するには強いリーダーシップが必要だ。どんな問題でも、あちこちに忖度され、あちらをたてればこちらがたたず、そのうちに時期を逸してしまう日本の悪いところがクローズアップされてしまう。

しかし、授業の後に自分の周辺にある取り組みを簡単に調べてみたところ、SDGsの取り組みの中で日本が昔から意識せずに行ってきたことがたくさん存在する。スウェーデンの例で紹介されたものの中で、形は違うけれど日本でもすでに行われていることも少なくないのだ。
例えば、スウェーデンでのファストフードでのSDGsへとの取り組みが例に出されていたが、日本でもSDGsができるずっと以前から取り組んでいる企業も存在する。
モスバーガーやドトールなどでは、大豆ミートを使用したメニューが数年前から展開されている。特にモスバーガーでは、2004年から緑モスと赤モスと店舗の仕様に応じて対応を変えており、緑モスではこれまでのファストフードチェーン店にありがちな簡易性を排除し、安心・安全、そして環境に配慮をスローガンにかかげ、2008年には全店舗を緑モス化している。

緑モスでは、店内飲食については、プラスチック容器ではなく陶器の食器で提供される。特に申請しない限りは、陶器の食器でサービスされる。また、大豆ミートの使用だけではなく、グルテンフリーのハンバーガーを提供するなど、さまざまな問題に配慮した商品展開をしている。
モスバーガーもドトールも、ファストフードとしては外国資本ではなく日本独自の企業だ。

また、ゴミの分別率は世界屈指といえる。分別の内容は自治体によっても異なるが、少なくともゴミの分別は自治体や業者まかせという国が多い中で、日本は分別の意識が非常に高いと思う。
EUの首都であるブラッセルを訪れたときに、道がタバコの吸い殻やゴミであふれかえっているのを見て愕然とした。ゴミ箱は10mおきに設置されているが、そこは灰皿も兼用になっていて機能しているようには見えない。
次の日の朝早くにホテルから王立図書館まで歩いていくと、街のあちこちで清掃車が機動しており、前の日までゴミであふれていた街は綺麗に清掃された。
あとで聞くと、ブラッセルの人たちは毎朝行政が清掃するので、自分たちは積極的に街をきれいに保たなくてもいいのだという意識なのだという。
同じ税金でゴミを収集するにしても、この意識の違いはなんなのだろうとこの時感じた。

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ブラッセルの街角にあった、ゴミの分別ポスト
分別の意識は高いような印象

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グランプラス周辺に設置されているゴミ箱兼灰皿
これが10m置きくらいに道の両側に設置されている

私の住む地域では、ゴミの分別は15種類ある。
可燃ごみ、プラゴミ、びん、缶、雑紙、布、鍋、本、新聞、商品プラ(リサイクルマークのついていないプラスチック)、ペットボトル、廃油、特定品目(電池や蛍光灯など)、粗大ごみ、草・枝類。
調べてみると、缶でも金属種類ごとに分別する地域、びんの色ごとに分別する地域など、30品目以上に分けられるところもあるらしい。
東京などの大都市では、ゴミを分別するコストを重視されて分別がなかったり少なかったりするが、それでもスーパーなどで資源ゴミを集めていたりと分別に対する意識は高いといえるのではないか。これは日本の取り組みのひとつであるといえるのではないか。

地域ごとの廃棄物分別事情

全国一!なぜ長野県は全国で最もごみが少ないのか

以前、スイスのゴミの分別のニュースを見たときに、スチール缶とアルミ缶と分けてゴミに出すため、キッチンに専用の選別用マグネットがどこの家庭にもあるということが話題になっていたが、金属別に分別するかどうかは自治体によるものの、ゴミを分別して出すこと、ゴミを収集されるのが有料であることは、今の多くの日本人には当たり前のことになっていると思う。

BS-TBSで5月3日の放映された「にっぽん!歴史鑑定」#268「なるほど江戸時代!世界が驚いた暮らしの知恵」が、とても興味深かった。

物を持たずとも6畳一間でのミニマルな暮らしが成り立った江戸時代。リサイクルの意識が高く、そのための専用の職人もたくさんいたという話。
日本では、物を大切に扱いリサイクルして使用する意識は、付喪神という神様の存在をみても、昔から根付いていたものだと考える。
テレビで周知されているものにのってみて、自分の生活や自治体の取り組みなどを観察するだけでも、意識的には違うのだろうとも思う。

この授業で取得したメガネ

私はたぶん、この授業で学校側が意図したものとは違うメガネを拾ってしまったような気がする。
ただ、この授業を受けたことで、世の中に落ちているSDGsのかけらが思っている以上に目につくようになった。SDGs関連のテレビ番組やCM。そして、企業から一方的に送られてくるDMにもサスティナブルの文字が目につく。
少なくともこの授業を受けたことで、持続可能とかサスティナブルとは何かについて考えるようになった。

私が授業の感想として、客観的に見て批判的だと思うような意見を発したときに(個人的には批判をしたつもりはなかったので、その反応に少し面食らってしまったのだが)、ファシリテーターの方が「まずは世界で共通言語としてのSDGsができたことに希望を感じます」という意見をいただいたが、これについてはまったく同意見で、SDGsの取り組みが無駄であるとはまったく思わない。
この取り組みで、世界中の人がひとつの地球という形でそれぞれの地域を意識する時代がくるのであれば、それはすばらしいことだと思う。

ただ、目玉焼きに塩をかけるか醤油をかけるかで離婚した友人のこと。中央シベリアで羊やヤギを放牧することが地球のためにならないと、遊牧民の移動テントの中で酔っぱらって演説し、大草原の中に放り出された自然派活動家の話。国家のために文化を廃絶しようとする国の話など、個人や団体、国レベルで考えることの大切さについて考えてしまう。

これはあくまで自論だが、となりにいる人の肌の色がなんであろうと、宗教がなんであろうと、出自の地域がどこであろうと、肉を食べようが草を食べようが、「ああ、あなたはそうなのね」で済んで、場合によってはそれをからかったりしてもお互いに笑ってすませることができるようになれば(これが重要だと思う)、SDGsの目標の半分くらいは達成するような気がしてならない。


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