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古びた事務所で

 もうここも終わりだな。
 俺は小さい事務所をぐるりと眺めた。
 掃除が行き届いていない事務所。ほこりのかかったパソコン。うず高く積まれた書類。壁には表彰状がかかっている。そう、いい時代もあったんだ。
 古びた茶色のソファにどかっと座る。
 子どもが二人、孫は三人。
 ……まあまあの人生だな。
 もうすぐ新しい家が建つ。息子夫婦一家と住む家だ。娘は近くに住んでいる。
 うん、いい人生だ。
「ねえ、さえちゃん、もうすぐ中学生になるわね」
「ああ」
 孫の名前を出され、ふいに娘の制服姿を思い出す。あの頃はセーラー服だった。長い髪を二つに結んで、しみじみと愛らしかった。
「……いろいろあったけど、でもまあ、よかったわね」
「ああ」
 いろいろあった……ような気がする。でも今となってはつらいことや大変だったことはあまり思い浮かばない。制服姿の娘や野球のユニフォームを着た息子、保育園の制服を着ている二人の姿、ランドセルを背負って二人で駆けていく様子。
 そんな情景ばかりが思い浮かぶ。
 嫁が隣に座った。
 太ったなあ。それから、白髪ばかりになった。皺も増えた。当然のことだが。
 俺の手も皺だらけで、ごつごつしている。仕事をしてきた手だ。嫁の手も同じように仕事をしてきた手をしていた。
 若い頃に比べて醜くなったであろう手に、俺はしかし愛しみを感じた。
 螺子を作ってきた。うまくいっていた時期もあった。終盤、うまい終わり方が出来なかったとしても、螺子に誇りをかけてきた。懸命に子育てもした。二人ともいい子に育った。きちんと就職して結婚もして、孫も生まれた。
 ああ、もう充分だ。
 嫁がつと立ち上がり、書類を揃えた。
「ここも片付けなきゃね」
「ああ……でもゆっくりでいいんじゃないか?」
「そうね」
 二人で働いて子育てをして、そうして似たような手を持つ二人になった。その働いていた場所を片付けるのは思い出に浸りながらでもいいような気がした。何しろ、ようやくたっぷりと時間のある人生になったのだ。
 俺は手をじっと見つめた。
 ここに、自分の人生が全部詰まっているような、そんな気がした。
 遠くで孫の声がしたような気がした。或いは子どもたちの昔の声の幻聴かもしれない。

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